アジール #シロクマ文芸部
レモンから揚げ、と私は言った。
レモンから揚げ?と、夫がリピートし、語尾を上げる。
「それがメニューの名前?」
夫が呆れたように言った。
「レモンを揚げてる、と思う人がいるよね、絶対」
「やっぱりそうかな」
私は自分の作ったメニュー表に目を落とした。
「でも、ほら。『から揚げレモン』だったら、レモンを揚げたのかな、って思うけど、『レモンから揚げ』だったら、から揚げにレモンがついてる、って思ってくれないかな?から揚げにはレモンって人と、レモンいらないっていう人がいるじゃない。だから、最初からレモンついてますよ、の『レモンから揚げ』と、ただの『から揚げ』を分けてメニューに書いたら、って提案しようと思うんだけど。それともやっぱり『から揚げレモン付』とか『レモン付から揚げ』のほうがわかりやすい、か、な……」
私の言葉はそっと空中を漂って消えた。夫は途中から私の話に興味を失ったらしく、ソファにもたれてスマホをいじっている。
私の話は、確かにどうでもいい話だ。
彼にとって毛ほども興味のない話題。
こういうとき、章くんだったら、と思ってしまう。
章くんだったら、一緒にメニューを考えてくれそうだ。レモンは必須だよねと笑ってくれそう。きみらしいネーミングだと思うよ、きみはレモン好きだからね、と言ってくれそう。章くんだったら……
夫はスマホをいじりながらテレビをつけた。スマホをするならテレビは要らないんじゃないのかと思うけれど、彼はどっちも少しずつ見てるんだから別にいいでしょ、と言う。
どっちも少しずつ。
レモンを絞ったから揚げと、レモン無しのから揚げを少しずつ。
生活はわたし。恋人は千奈津さん。相談するのはお義母さん。
全部少しずつ。
少しずつで彼の欲望が全部埋まれば、争いは起きない。心は平穏。
そうやって人を何種類もの役割で分ける人と結婚したのは、私だ。
そして今の彼には、スマホとテレビがあればいい。私は要らない。
夕食は食べ終わったし、後片付けさえしてくれればそれでいい。なんならその後も黙ってシャワをー浴びて部屋に入って寝てくれたらもっといい。
彼がそう思っているのが、手に取るように分かった。
一緒に食卓を囲んでいるのに私が夕食を食べていない、なんなら朝から何も食べていないなんて、気づくことも、想像することもないだろう。
この前は、私が寝ていると思ったのか、リビングから寝室に電話で話す声が漏れ聞こえた。相手は千奈津さんで、今度会う約束をしていたようだった。
私はベッドの中で耳をふさいだ。
何も知りたくないし、何も聞きたくない。自分がただ家事をするためにここにいるということを認めたくなかった。
新しくオープンする友達のカフェのメニューを考えて欲しい、って頼まれたの、という話を、私はひとりでお芝居をするように話していた。『レモンから揚げ』にだけはなぜが反応があったから、話を聞いてくれるのかな、と思ったら、当たり前のようにスマホを出した。
一瞬の視線。一瞬のまたたき。
私、要る?
あなたに、私、要る?
家事代行を雇うとお金がかかるから、私と結婚したの?
そう思いながら、Canvaで作ってみたメニュー表をテーブルに伏せ、黙って後片付けをした。部屋の中には、バラエティ番組の絶え間ない笑い声と、食器を食洗器に入れるために予洗いする水音だけが響いていた。
「あ」
キッチンを綺麗にして、メニュー表を手に取り、部屋に戻ろうとした私に、夫が声をかけた。名前さえ呼ばない。
「俺、週末泊りで出張。あとさ、風呂、掃除されてなかった。暑いんだからさ、すぐキレイな風呂に入りたいのね、俺。バスルーム開けて、掃除されてないってすごい気分悪い。テンション下がる」
大きな企業の人事部に勤めていて、今は泊りの出張があるような仕事をしていないはずだが、と思うが「なんの仕事で?どこに?」とすら聞けなくなっている自分がいた。
そう言えば、長いこと、名前で呼ばれていない。
「あ」と呼ばれている。
私の名前は、「あ」。
当然、夜もそれぞれに寝ている。結婚後比較的早いうちから、寝室はあるのに彼はソファベッドを買って別の部屋に寝ていた。そばに人が寝てるとよく眠れないからと彼は言った。
義母は「まだ?まだかしら」などとプレッシャーをかけてくるが、まさかそんな状態で子供なんて望めるはずもない。
「そう言えばさ」
珍しく私を呼び止めて、説教や文句以外の言葉が続いたので、うっかり期待した。なに、なんて返事をしてしまう。
「前原さん。会社の先輩。死んだんだって。なんかバイクの事故で」
と、彼の話はそこまでで、それ以上は言葉がなかった。「なんかバイクの事故で」の時には、もうスマホを触っていた。スマホをいじりながらする話なんだろうか、と思ったが、そうなんだ、と言ってリビングを離れた。
事実に対しショックを受けるより先に、夫のどうでもよさそうな言い方がひっかかる。子供じゃないのだ。亡くなったとか、違う言い方で言えないのだろうか。お香典とか、お悔やみとか、お花とか、そんな相談にもならない。そういう相談は、お義母さんにするんだろう。
前原さんは、結婚式の披露宴の時に「人生には3つの坂がある」とスピーチしてくれた人だった。生真面目な性格でさらに緊張していたのか笑いを取るようなこともなく、ただ上から説教するような話しぶりで、釈然としない感じがしたのを、よく覚えている。
あとから、とりあえず同じ部署に配属されることが多かったから頼んだだけ、と夫は言っていた。個人的なつながりがないという。個人的なつながりがないような人に結婚式のスピーチを頼むなんて、そんなことあるんだなと驚いたものだが、今の夫の反応を見ても、それが裏付けられた。
夫は結局、そういう人なのだ。
寝室に入って、布団を被った。
なんで結婚したんですか、と誰かにインタビューされてみたかった。
私は答えるだろう。
「ええ、なんでなんでしょう。今となっては私にもわからないんです。夫と出会った時、彼氏がいたんです。でもタイミングがずれた、というか。優しいけど、少し煮え切らない文学青年タイプの人で。いつまでも私が離れて行かないという安心感に安住していた部分があったんだろうと思います。彼は安定期だと思っていたかもしれませんが、私にとっては停滞期が続いてました。そんな時に今の夫に出会って。強引に迫られた時、ちょっと舞い上がってしまったんですね。夫は社内でも女性に人気がありましたし、人当たりが良くて話が面白くて。デートで女性を飽きさせないんです。彼と結婚したら、毎日こんな風に笑っていられるのかなって思いました。でもお笑いの人って家では別人、っていうじゃないですか。彼もそういうタイプだったみたいです。外で一生懸命サービスする分、家では横柄なモラハラ夫でした」
妄想の中でインタビューに答えていると、妄想のインタビュアーはさらに言った。
「章くんに戻りたい、と思ってるんじゃないですか」
私は、答えられない。
あの時、彼を選ばなかった。
彼も、私を選ばなかった。
章くんには、強引なところがない。柳のような人だ。私がしたいことをなんでも尊重してくれる彼は、別れる、と言った私をひき止めなかった。きみが幸せになるなら、それでいい、と言ってしまうタイプの人。
本当は、引き止められたかった。引きとめるだけの思いの強さを、私は彼に求めていた。村上春樹の話ならいくらでも盛り上がるのに、人間関係はいつも受け身。私はそれが歯がゆかった。
結婚した後も友達のふりをして会いに行ったり、外での食事に呼び出したりするのは、私の「サイン」だとは思わないのだろうか。彼はただ、それを当たり前のように受け入れるだけだ。
彼の家の冷蔵庫には、いつもレモンがある。
まだ、私を好きなんじゃないかという、淡い期待を匂わせる。
それなのに彼は、私のことに踏み込んでくることはない。話したくないなら話さないでいいよ、なんてきれいごとを言う。彼女ではなくなった私に、肉体関係を迫ることもない。そういう雰囲気すら持ち込んでこない。それが自分のけじめである、とでもいうように。
リビングから、話し声が聞こえた。
これまでずっと聞こえないふりをしてきたが、私は突然上掛け羽根布団を跳ね飛ばすと、リビングに向かった。
「星野リゾートだぞ、千奈津」
ドアを開けるなり、その言葉が耳に飛び込んで来た。私のほうを見て、さすがに夫は、バツが悪そうにした。いきなり電話を切り、
「寝てるかと思った」
と言った。
「星野リゾート。知ってる。10万とか20万とかするよね。土日だったらどんだけ高いんだろうね」
私は普通に言った。普通に言った方が怖いことってある、と自分でも思っていた。ホラー映画的な怖さ。さすがに夫もそれは感じたらしい。
「千奈津さんはそれだけの価値があるんだね。女優さんみたいに綺麗だものね」
「はあ?千奈津と行くなんてだれも言って無い。どっから聞いてたんだかしらないけど、憶測でもの言うな」
「出張で星野リゾートに泊まるなんて話聞いたことない。すごい出張だね」
私はさらに淡々と言った。
「だから誤解だって」
「結び付けるなっていうほうが無理だよね。普通、そう思うよ。まあいいよ。私もずっと、見て見ぬふりしてきたんだし。いつか終わることだと思ってたし。甘いってわかってても、そう思ってたし。だからだんだん、エスカレートして、リビングでも平気で女の人に電話するようになったんだし」
し、し、し、とひたすら言葉を続けたあとで、私は最後に聞いた。
「ねえ。私の好きな食べ物、知ってる?」
夫は私の勢いに呑まれたように、虚を突かれたような顔のまま、クイズ番組に出たイケメン俳優みたいに言った。
「えっと……からあげ?」
「レモンだよっ、ばーか!!!」
それからどこをどう、彷徨ったのか覚えていない。
気がついたら、章くんの家の前にいた。
夜中に来たのは初めてだ。そこはさすがに遠慮していた。時々現れることに違和感は感じていただろうし、いつまで誘うつもりだろう、とは思っていたかもしれないが、泊めて欲しい、などと非常識極まりない時間に来たことはこれまで一度もない。
自分がどうかしているとしか思えなかった。
「ともだち」と言う言葉を伝家の宝刀みたいに振りかざすふたりの温度はいつだって平熱のままだ。それでも彼の家にレモンがある限り、あるだろうと信じられる限り、ここは私の避難所だった。
インターフォンを押す指が細かく震えている。
彼にどうして欲しいのか、どう言って欲しいのか、自分でもわからない。
でもごめん、章くん。今は、今だけは。
助けて。
了
※あやしもさんの小説「レモン」のスピンオフです。
※アジールとは
「歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する」(Wikipediaより)
あやしもさんの「レモン」
ピリカさんのスピンオフ
コメント欄に「ひよこ初心者」さんが、
と書いてらっしゃって、思わず「ほんとに言って無かった??」と「レモン」を読み直しました。笑
そして、「私、要る?」の世界ができました。
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