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【創作大賞2024】眠る女 10(最終話)

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10

 優花里の子供が生まれたのは、それから三か月ほど経った頃だった。
 葵とカオルは優花里が病院を退院する日に駆けつけたが、話によればアメリカにいる優花里の夫、つまりカオルの兄のヒカルは、とうとう一度も、姿を見せなかったらしい。

 産科の面会室で、小さな男の子は清潔なおくるみに包まれていた。

「退院は午後なんだって。ごめんね、せっかく来てくれたのに。タクシーで帰るから、迎えはいいからね」
 と、緑色の椅子に座って優花里は言った。このまま近くで待っているから、というと、嬉しそうに、ありがとう、と言う。
「来月には、アメリカに戻る予定。ヒカルも待っていると思うから」
 それを聞いて、カオルと葵も微笑んで頷き返したが、心の中では心配していた。カオルの兄であるヒカルがこの出産をきちんと受けとめられるのかどうか、葵はともかく、カオルはずいぶん、危惧していた。

 生まれた子供にヒカルの遺伝子は欠片も入っていない。ヒカルは、納得して妊娠と出産にまつわる全ての費用を負担した。精子情報も、慎重に2人で選んだと聞いている。でも現実には、優花里とヒカルの間には、目に見えない溝ができているようだった。
 優花里は、不安を感じているそぶりを表に出したりはしなかった。むしろ、出産前よりずっと落ち着いた表情をしていた。

「ねえ」
 小さな乳児の手に触れながら、優花里が歌うように言った。
「トキオって名前、この子にくれない?」
 カオルと葵は顔を見合わせた。
「いいけど、嫌じゃないのか?大変なことがあった名前だぞ」
 率直過ぎるほど率直に、カオルが尋ねた。
「それだから、いいの。たいへんなことがいっぱいあった名前だから、護ってくれると思う」
 カオルが不安げに葵を見て、それから優花里に視線を戻した。

「私、この子は時生さんの生まれ変わりなんじゃないかなって思うの。だって、ちょうど彼が亡くなったころなの、私が妊娠したの。それまでは受精卵が着床しなくてうまくいかなかったのに、この子だけはちゃんと、私のお腹に来てくれた。その後、葵さんに会って。あの時、どうしても葵さんのそばにいなきゃと思った。最初はね、産むまで日本にいるつもりはなかったの。出産はアメリカでもいいかなって思ってた。でも葵さんに会って、なんともいえない離れがたい気持ちを感じて、産むまで日本にいようって決めたの。なんだかお腹の子が、葵さんを慕っているような気がして」

 葵をみつめてそういう優花里に対し、カオルと葵は言葉が見つからず、黙っていた。
「子供は、アメリカで育てるのか」
 沈黙を破ったのはカオルだった。
「うん。そのほうが、いいと思うんだ」
 優花里は屈託なく微笑んだ。

 時生が亡くなったのは、葵と知り合った直後だった。公園で会った時、彼はちゃんと生きていた。旅の話をしてくれた時生は、生きていたのだ。
 その後、帰省するために二輪で長野に帰る途中、事故に遭ったらしい。

 カオルは、時生は間違いなく霊魂、幽霊のたぐいだという。
 自作自演で結婚はがきなんて出すわけがないし、だいいち自分が麻布のファストフード店で会っている。あの日彼に会わなければ、葵のマンションに行こうと思うわけがないんだから、間違いない、というのだ。
 確かにそう言われればそうかもしれない。葵も、時生との日々を肯定されるようで信じたい気持ちにもなる。
 ただ、カオルはずっと葵に対して罪悪感を持っていたのかもしれず、あの日は前日に飲み過ぎていたのかもしれず、そんななか、「たまたま」見た夢と「たまたま」葵の危機が重なっただけなのかもしれない、という思いは捨てきれない。
 カオルにそう言うと、そんな「たまたま」ばかりが重なることなんかあるわけがない、と言われるので、あまり否定しないようにしている。

 葵は、少し身も蓋もないけれど、病気の進行による記憶の混濁や捏造だったのかもしれない、と思っている。両親を亡くしている葵は幽霊を信じていない。なんど両親の霊が現れてくれないか、助けてくれないか、と思ったか知れないからだ。
 時生と公園で初めてデートした日、この人とならずっと一緒にいられるかもしれない、と思った。写真撮ってもいいですか、と聞かれて、ふざけて韓流アイドルみたいなポーズをとった。ずっと素敵な人だと思っていた、結婚するならこの人だと思っていたと、時生は言ってくれた。
 あの日、葵と時生は意気投合した。勢いでキスをして、もっと離れがたくなって、あちこち歩き回り、居酒屋に入って、夜遅くまで一緒にいた。今思えば、あの日のキスは、彼にとってどんなものだったんだろう、と思う。「しない」時生じゃなかったような気がする。「したい」時生だった気がする。
 色々な予感を孕んだ夜を退けて、翌日は用事があるからもう帰らなくちゃと、時生は言った。
 あんまりお酒ばかり飲んではだめですよ、これからは僕がそばにいますからね。ちゃんと見張ってますからね。
 あの日はあんなに優しかったのに、翌日から連絡もなく、すでに睡眠障害と記憶障害があった葵は、混乱したのかもしれない。ただただ、美しすぎるほど綺麗なあの日を、続けたかったのかもしれない。記憶はないけれど。

 真実は、わからない。
 どれも信ぴょう性に乏しいと言えるし、そう思えば思える。ただ、葵の中で時生は今も「夫」「夫だった人」だ。たとえ夢でも記憶の捏造でも、妄想でも、幻覚でも、幽霊でも、とても幸せな日々を、彼と過ごした。葵にとっては、それが「現実」だ。

 そんなことを考えながらぼんやり優花里の腕の中の赤ちゃんを眺めていた。優花里はこの子が「生まれ変わり」だという。
 そう思うと、この子はなんだか時生に似ているようだ。似ているところを探してしまう。

「カオル。ひとつだけ約束して。ヒカルともし別れることになっても、ずっと友達でいてね」
 何かの話の続きのように、優花里がカオルに向かって言った。
 うっとりと時生の欠片を探そうとしていた葵も、冷たいしぶきを浴びたような気持ちになって、はっとして優花里を見た。
「やめろよ、そんな変なこと言うの。それに友達ってなんだよ。俺たちいとこだろ」
 カオルは不快そうに眉をしかめた。
「兄貴はああ見えて、ちゃんとしてる。大丈夫だよ」
 おそらくは誰よりも兄の誠実を心配しているのがカオルだということは、ここ三カ月ほどカオルと「まともに」付き合ってわかってきたことだった。
 虚勢でも願いでも、そうあって欲しいという強い気持ちが、カオルの言葉に滲み出ていた。
「うん。でもね。こういうことは、人間って―――わからないよ。どんな感じ方になるか、当事者になってみないと」
 優花里は静かな表情でそう言った。

 当事者になってみないと。
 確かに葵の体験も、感じた気持ちも、なにもかも、決して誰かと共有できるものではない。話だけなら、半信半疑の生温かい視線を向けられるか、怪談か、真顔で虚偽を語る人だと思われるだけだろう。近くにいて体験をある程度共有したここにいる三人でさえ、起こったことの捉え方はそれぞれ違うのだから。

 ヒカルというカオルの兄とは会ったことがない。できることなら、たくさんの複雑な感情の中から、なんとか優花里とトキオへの愛情を選び取ってもらいたいと強く思った。

 会話が途切れるのが怖かったが、胸がいっぱいで、何も言うことができないでいた。優花里と離れるのが辛かった。
「葵さんも、元気でね」
 明るい優花里の声に我に返る。そうしたら、やっと唇から言葉が勢いよく飛び出してきた。

「優花里さん。私、優花里さんがいてくれて良かった。本当によかった。どう言ったら伝わるのかわからない。私、優花里さんのこと愛しています」

「なんだそれ」
 カオルが笑ったが、葵は真剣だった。
「また、会いましょうね」
 優花里は少しだけ涙声だった。
「私と葵さんはきっと、とっても深いところで繋がってるんだと思う。トキオがいることで、2人は繋がってる」
 その言葉に、胸が締め付けられた。優花里と別れるというより、トキオと別れるのが辛いのかもしれなかった。
 今さっき「トキオ」と名付けられた幼子おさなごは、眠たげな眼で、葵を見た。その目が宿す光は確かに、見知ったまなざしであるような気がした。

「名前に囚われるつもりはないの。私なりに一生懸命、育ててみるね。トキオはね、愛する人を、必死で守ろうとした人の名前。とても素敵な名前だよ」

 抱っこしてみる?と聞かれ、葵の手にそっと乳児が渡された。小さくて、でも意外なほどずっしりと重い。首が動かないように腕をこわばらせながら、葵はトキオを抱いた。パンケーキみたいな、ポテトみたいな嬰児の匂いに、心の底から愛しさがこみ上げた。

「いつ、長野に行くの?」
 優花里の声に、カオルと目を合わせる。
「冬になる前に、行ってみようと思ってる」
 うん、と優花里はうなずいた。

 面会室の窓は少しだけ開いていて、秋深いわりには温かい風が吹き込んでいた。ふと、ふんわりといい香りが漂ってきた。金木犀だろうか。遠くに木があるのか、もう季節が終わりかけなのか、むせかえるような強いにおいではなく、そっと漂うほどの芳香ほうこう
 その時、思った。自分にはずっと、季節がなかった、と。
 時生と会うだいぶ前から、秋も冬も春も夏もなかった。なんの匂いもせず、気配も感じられず、ただ、暑い寒いと揺らめく時間を生きていた。
 今、葵はくっきりと空気に匂いを感じている。まるで宇宙から帰還してヘルメットを脱いだ宇宙飛行士のように。
 幽霊でも、幻覚でも、夢でも生まれ変わりでもいい。
 終わるもの、始まるもの。それは同時で、それは刹那で。
 季節の中に内包されていて。
 時が満ちれば生まれ、繰り返していく命。
 今、まさに。

 ああいい香り。でももう秋も終わりね。
 どこか解放されたような優花里の声が、清々しく耳に響いた。
 トキオは葵の腕の中でしゃっくりのような声をひとつあげたあと、この世のすべてに異議を申し立てるように、力の限りに泣きだした。 

「眠る女」 完


眠る女

目次【全10話】

第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話


 創作大賞というお祭りの片隅で、ラストダンスを踊っています。

 ついに、最終話となりました。
 欄外の「踊る女」も最終日。

 最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!