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【創作大賞2024】眠る女 6

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 また、夢を見た。
 いくつもいくつも絶え間なく夢を見るのだ。
 ひとつの夢はもうひとつの夢につながって、大きくうねる。

 時生と出会った時の夢を見ていた。
 出会ったのは、コンビニエンスストアだった。

 同じコンビニでしょっちゅう会うと、まるで知り合いみたいな気持になる。客同士だと会話もないが、店員だと一応、言葉を交わすこともある。時生は、コンビニの店員だった。

 いらっしゃいませ。ありがとうございました。寒いですね。暑いですね。割り箸入れますか。あたためますか。お支払いはどうされますか。……言葉を交わすといううちには、入らないかもしれないが、ひとつのコミュニケーションではある。

 結婚しようかという話が出たころに時生はコンビニを辞めて、結婚してからもしばらくは仕事を探していた。

 それまでの彼は、いわゆる外国のいろいろな所をふらふらと旅して歩く人だった。目的のないバックパッカー。日本で少しの間アルバイトをしてお金がたまると、ふらりとどこかの国に行く。だいたいがアジアで、しばらく放浪して、またかえってくる。そんなふうだったらしい。
 葵は、生活力に長けた彼は、いずれ仕事を見つけるだろう、と簡単に考えていたし、実際ひと月半ほどで広告の下請け会社に就職した、と報告してきた。葵は若かったけれど家を持っていて、その家に彼が住むだけの結婚だ。何の問題もなかった。

 結婚前の葵は、仕事で帰りが遅くなると、スーパーよりコンビニを利用していた。ひとり分の食生活は、コンビニで十分に賄えた。ことによると、何でもコンパクトに揃うコンビニの方が、便利だった。
 だからほとんど毎日行った。
 そこに、時生がいつからかいるようになったのだ。

 向こうは、かなり以前から気に止めていたらしいが、葵はカオルのこともあって彼のことはまったく目に入っていなかった。葵にとってコンビニの店員さんは、陳列棚の延長みたいな感じだった。

 葵は、毎日酒とたばこを買った。しまいには葵の買う銘柄を彼は覚えてしまい、

「今日はあれ、ありませんよ」

 などと機先を制してくることもあったくらいだ。

 そしてある日、会計時にメモを渡された。

 深夜の、客の少ないコンビニで、彼は意を決したようにポケットに忍ばせていたメモを大急ぎで手渡した。

 だいぶ持ち歩いたらしく、くしゃくしゃになりかけのその紙には、連絡先と、できればどこかで一度会って欲しい、というようなことが書いてあった。

 時生が年下だということはなんとなく分かっていた。そんなことより、毎日酒ばかり飲んでいたので、こんなに酒ばっかり飲む女のどこがいいんだろう、と不審に思った。会うのは、かなり躊躇した。

 それでも結局、日曜の昼間、近くの公園で会うことにした。
 まさかの健全すぎるほど健全な初デートだ。

 葵が行くと、時生はベンチに座って待っていた。
 春の肌寒い寒い日で、マウンテンパーカーを着た時生は、遠めに見てまだ高校生みたいに幼く見えた。葵の姿を見つけると、
「来てくれたんですね」
 と嬉しそうに言った。
「制服じゃないと、高校生みたい」
 葵が素直に思ったことを言うと、照れて笑った。
「よく、言われます。あんま、年取ってないんです、きっと。もともと童顔だし、外国ばっかり行ってたから」
 そして、シンガポールに行った時の話をしてくれた。
「未成年だと思われて。パスポート見せてやっと煙草売ってもらったんです。だから、僕、麻薬とか女とか、買わないかって言われたこともないです」
 インドネシア、ミャンマー、ラオス、マレーシア、インド、パキスタン。彼の旅の話は面白かった。旅の話が上手な人だった。
 旅行の話というと、大袈裟な話や人を驚かせるような出来事の話ばかりする人もいるが、彼のは等身大で、その国に行ってみたいと思うような話が多かった。本当に、旅が好きなんだということが伝わってくる。
「女に間違われたこともあります。さすがに、見えないでしょう?どうして女だと思ったんですかね」

 すると場面が一転、時生は女性で、なぜか一緒に温くて気持のいい温泉に入っていた。

「ここって、子宝の湯なんだよ」
 女の体で、女の声なのに、時生の話し方でそう言う。
「葵は子供産みたい?」
 お湯に浸かってのぼせたみたいな顔で彼は聞く。
 子供ができるようなことをしないのに、なんでそんなことを聞くんだろう、と、夢の中なのに葵は少し苛立つ。
「時生は子供欲しいの?」
 葵が聞くと、時生は笑って、
「わかんない」
 と言う。
「でも僕は、子供生むより前に、もう一度生まれてみたい」
 時生がそう行った時、急に、温泉のお湯がぶくぶくと溢れ出した。ジャグジーみたいになって、ぼこぼこお湯が吹き出してくる。
 あっと言う間に、二人は流された。
 濁流になって、すごい勢いの河になったのに、葵はなぜか、悠々と泳いでいる。

 時生だけが、流された。

「時生!」
 泣けど叫べど、もう時生は見えなかった。葵は、悲しくて泣いた。子供のようになりふり構わず、時生の名を呼びながらわんわん泣いた。
 取り残された。
 目が覚めた。

 目を開けたときそばににいたのは、あの無口な看護師だった。
 個室の部屋は暗くて、廊下の電気の光が開けたドアから入ってきていた。

 彼女は、小さなライトを持っている。つけたままベッドの脇の食事棚に置き、ベッドの足元の方を照らしていた。

「巡回中、叫び声がしたので」
 ひそやかな声で、彼女は言った。名札が見えて、初めて、彼女が鈴木さんだということを知った。
「夢を、見てて……」
 どうやら、深夜のようだった。
「汗かいてますね。着替えましょう。電気つけますね」

 鈴木さんは、そう言って部屋の電気をつけると、てきぱきと予備の病院パジャマをロッカーから出した。葵が悪夢を見て大量に汗をかくので、多めに準備してあるらしい。

 すでに点滴もなく、残すは尿をとる管だけで、葵は自分がかなり身軽な状態になっていることを知った。今になってやっと、少し恥ずかしい、という感情が湧く。

「私、何か言いましたか」
 おそるおそる聞くと、鈴木さんは、短く、
「言いましたけど、よくは聞こえませんでした」
 と言った。

 身体を拭いてもらい、着替えをすると、さっぱりした。鈴木さんは、ベッドの足元で尿の袋を確認すると、ライトに手を伸ばした。

「……そう言えば」
 鈴木さんは、切れ長の綺麗な目をしていた。細い目の奥のその瞳には、感情らしい感情は読み取れない。
「今日も、柏木さんがいらっしゃってました」
 精いっぱいの、リップサービスのようだった。
「では」

 カーテンを引いて、電気を消し、彼女は出て行く。
 闇の中に、ひとり、残された。
 静かだった。

 これまでは目覚めたときは昼の光や電灯の光があって、必ず何かしら誰かと話をしていたので、目が覚めてひとり「リアルな世界」の中で何かを考えることは久しぶりだった。

 頭はすっきりしている。また眠ってしまうなんて信じられないくらいだ。

 会社はどうなっているだろう。どうなっているのか聞く間もなかった。まあ、確実に解雇だろう。一方的に行かなくなって、理由も説明しないで、無断欠勤もいいところだ。退職金も出ないだろう。8年も勤めたんだけど。
 でも、会社のことより気にかかるのは。

 時生。
 どこにいるの?

 彼が消えるまでの最後の半月は、まともに顔も合わせなかった。考えてみると、毎日のなんのことはないことの積み重ねが、生活ということそのものが、「ふたり」を形作っていたのだな、と思う。ほかの誰でもない、「わたしたち」という単位。

 歯を磨く時生。本を読む横顔。テレビに大笑いしたあとの涙目。ごはんを口に運ぶときの妙にまじめな顔。

 どれもどきどきするようなことではない。毎日の、とるにたらない仕草の積み重ねだ。それでも、それがこんなにも愛しい。狂おしいほど、切実に見たいと思う。見つめていたいと。

 だとすればカオルの存在は、葵にとっていったい何だろう。そして、カオルにとって葵は何なのか。今のカオルが、今の葵にしていることは、単なる償いなのだろうか。そうでなければそれは、愛情だろうか。

 こんなにも東奔西走してくれているカオルには、感謝している。カオルにとっては恋人のひとりに過ぎなかった女なのに。

 そう、ただの「女」。出会ったとき葵は若くて、太り過ぎてもやせ過ぎてもいなかった。そういう意味で彼にとって「価値」はあったかも知れない。肉体的な価値。葵自身とは半分無関係の、外側の価値。
 カオルは、葵の内側に興味があっただろうか。
 くっついたり別れたりを繰り返したせいで、真の意味でのカオルとの信頼関係は築くことができなかった。カオルを信じ切れなかったし、カオルもまたそうだっただろう。

 時生は違った。
 葵が眠れなくなる前までのふたりは、まるでプラトニックな純愛物語そのものだった。それは、結局おとぎ話だったのだろうか。そんなむつまじさの陰で、時生は葵を疑い、怪しみ、不信を募らせていたのだろうか。

 愛とは呼べないセックスと、愛しかないセックスレス。どちらが嘘で、どちらが真実に近いのだろうか。
 時生は、したくてもできなかったのだろうか。それとも、本当にする気がなかったのだろうか。
 何度も問いかけた問い。答えなど出ない。唯一の答えは、葵は時生としたかったということ。時生とできないから、カオルを求めたのだと言うこと。そうでなければ、切れた昔の男と、だらだらと体だけの関係を続けるなんて、単なる時間と体力の無駄使いでしかない。

 体と心は、どうして切り離せないんだろう。どうせなら、まっぷたつに割れてしまえばいいのに。

 葵の心は、ガラス製ではない。伸び縮みするゴム製でもない。ぱかっと割れるプラスチック。それが葵にふさわしい心の形だ。プラスチックの心は、プラモデルのように組み立てられる。赤い方は、カオル。青い方は、時生。それで割り切れるなら、どんなに楽だろう。

 実際は、そういう訳には行かなかった。

 心と体は、柔軟に結びついたり離れたりして、すっかり離ればなれになることはない。その緩衝地帯。それは、「たましい」というのに、近いと思う。極分化しようとした葵のたましいは、傷ついてしまった。プラスチックはどろどろと溶けて、変な形で固まってしまった。

 とりもどしたいのは、時生の身体?カオルの心?それとも、その逆?

 目じりに溜まった涙が、こめかみに流れて髪に吸い込まれた。
 でもそれももう、すべて過去形だ。
 葵のこれからは、あるのだろうか。「これから」という言葉。この病院のベッドの上で、始まるのだろうか。時生のいない未来。時生のいない今。そして過去、時生は……

 ———いたのだろうか、ほんとうに。

 何度も去来したその疑問を、静かな世界でかみしめてみた。

 長野に時生の住所があると、カオルが言っていた。長野なんて、行ったことがない。時生は自分は天涯孤独だと言っていた。葵と同じように、両親が早く亡くなったのだと。

 就職したばかりの頃に両親が不慮の事故で亡くなって、葵はひとりになった。
 そのときすでにカオルとは付き合っていたけれど、それが原因でカオルが葵をうとましく感じ始めたのはわかっていた。両親の死を受け入れることが困難で、辛くて、葵はカオルを頼った。カオルだって、まだ子供だったのだ。あんなに頼られたら、重かったことだろう。しかし葵には、ほかに頼る人がいなかった。親戚とは付合いがなかったし、両親に特別な財産もなかった。
 葵はただ、ひとりになった。
 両親と住んでいたマンションに住み続けることが苦痛だったので、家を売却し、都心のワンルームマンションに住んだ。

 両親の事故でうけた心の傷が癒えないうちに、最初にカオルに拒絶されてからは誰かに心を許したことなどない。

 時生は葵を温かく包んでくれた。彼といると、なにかとてつもなく大きなものと一緒にいるような安心感があった。時生が結婚したいと言ってくれた時、葵は泣いた。ほっとして、なにもかも打ち明けた。だからカオルのことは、時生も知っていた。現在進行形で会っている話はもちろんしなかったけれど、過去、カオルがどんなふうに葵と関わったかを知っていたのは、時生だけだった。

 だから、カオルのところに行ったのだろうか。葵を頼むと、言いに行ったのだろうか。

 ふと焦燥感にかられ、急いでナースコールを押した。今は、自分でなにひとつできない状況なのがもどかしかった。スマホで電話をかけることすらできない。

 思わず、自嘲的な笑みが頬に浮かんだ。
 今のいままで、スマホのことを1度も思い出さなかった。
 葵にとって唯一のライフラインだった筈なのに、生きるか死ぬかの状況でスマホ、という発想がなかったことに、笑ってしまう。

 カオルがいたから、事足りた。時生とカオル以外に葵には、連絡を取りたい誰もいなかったのだ。

 こうなるしばらく前からは、スマホを手に取っても、発信しなかった、そういえば。

 誰にも。

 時生はスマホが嫌いだと言い、持っていなかった。通話ができるだけの、発掘された化石みたいなガラケーを持っていたが、結婚してしばらくしてそれも壊れたと言って完全に「持たない人」になった。いまどき珍しいことだし、いらいらはしたけれど、家には毎日帰ってきて話はできていたので、状況になれてしまうと気にならなくなった。自由を愛するバックパッカーの言いそうなことだ、くらいに思っていた。
 
 だけど今思えば、なんでそんなに、都合のいい思い込み方をしていたのだろう。

「どうしましたか?」
 影のように現れたのは、さっきの看護師、鈴木さんだった。
「すみません。また眠ってしまう前に、どうしても、メモしておきたいことがあるんです。柏木さんに伝えたいことがあって。紙……なにか紙と、ペンを貸してください」
 おかしな依頼だったが、鈴木さんは無言で頷いた。体調の不具合でなかったことにほっとした顔だった。

 音をなるべく立てずに急いで部屋から出て行き、すぐに戻ってきて、味も素っ気もない縦書きの便箋と、自分の胸に刺してあったボールペンを差し出した。そして、ベッドサイドの明かりをつけてくれた。

「寝た状態で、書けますか?」
 試してみたが、とにかく力がなく、字がまともに書けなかった。
「お願いします」
 葵は彼女にすべてを託す気持ちで便箋とペンを差し出した。ふと、便箋は常備してあるんだな、と思った。ひょっとして、遺言を書きたいという人がいるのかもしれない。考えすぎかと思ったが、案外、的を射ていたのかもしれない。鈴木さんの顔は真剣だったが落ち着いていた。前にもこんな状況があった、というような表情だった。

「カオルへ。ユキに出した年賀状を回収してください。部屋にあるスマホを持って来て下さい。そう、書いてください」

「はい。それで、全部ですか?」
 葵は頷いた。こんな簡単なことを、「明日言おう」と済ませられない自分が情けなかった。

「鈴木さん」
 葵は彼女を呼んだ。彼女は眉も動かさず、頷いた。
「もしわたしが寝てしまって、またしばらく起きなかったら―――今度は、起してください。わたしを、起してください」

「浮島さん?」

「私、今度はちゃんと起きます。あなたが起してくれたら、必ず起きます。自分の意志で」

 鈴木さんは、黙って葵を見ていた。その目はしんとしていたが、冷ややかではなかった。
「やってみましょう」
 そしてやっと、そう言ってくれた。

 葵は安心した。安心して、そしてあれがまた側に来ていることに気がついた。
 沼。ゆるい、淀んだ、暗い、沼。

「怖い」
 思わず葵は呟いた。
 そのとき、鈴木さんが手を握った。しっかりと、強い力で。
「起しますから」
 そう、言ったのを聞いたのか、聞かなかったのか。

 葵は、沼に沈むように、また眠った。

眠る女 7」に続く


眠る女

目次【全10話】

第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話


 創作大賞というお祭りの片隅で、盆踊りを踊っています。