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【創作大賞2024】眠る女 9
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9
脳神経外科で最後のMRIを撮ったが、異常は見つからなかった。結局のところ原因らしい病変は見つからず、身体そのものは順調に回復に向かっている。心療内科の医師とカンファレンスをした結果、ナルコレプシーの特殊例というのがいちばん近い診断になる、と脳神経外科の医師は言った。
狂った睡眠時間もほぼ平常へと近づき、葵の退院が決まった。定期検査と平行してその病院の心療内科に通うことになり、あとは通院と薬での治療ということになった。
すべての手続きを手伝い、葵を家に送ってくれたのは、やはりカオルと優花里だった。
裏手の入退院口に滑り込んで来たカオルの車に乗り込むと、芳香剤の匂いがして、後部座席には優花里が座っていた。優花里のお腹は座っているだけでもそれとわかるほど目立ってきていて、葵はそれが嬉しかった。
「会社に連絡ついた?」
心配してくれるのはいつも優花里だ。
「はい。診断書も出して、連絡が出来ない状態だったことが認められて、このまま自主退職でも、傷病休暇にしてもいいって」
そう、と、後部座席からミラー越しに優花里は微笑んだ。
昼間起きていられるようになってからは、各所への手続きの連絡に追われた。ある意味、やることができて気も紛れた。
葵は運送会社のコールセンターに勤務していた。一応社員で、アルバイトチームのリーダー的な立場だったが、実際のところはアルバイトと業務内容はほぼ変わらず、だからこそアルバイトの不満が溜まりやすかった。復帰したとして、今回の葵の欠勤でカバーに入った社員やアルバイトに、理解を求めるのは難しいなと思う。
ただ、会社の人事の人が思っていたより親切だったので驚いた。代わりがいくらでもいる葵のような社員には冷たいのかと思っていた。解雇どころか、会社を辞める時、休暇を取った時、と場合別にとるべき手段を示してくれて、有難かった。
「療養が6か月以上になると、障がい者手帳をもらえるかもしれないから、そうしたら障がい者雇用枠での雇用にもできる、って言ってくれたんです。離職しなくても、そういう制度が会社にできたらしくて」
「へえ。それ、いいじゃない」
と、カオルが言った。
「どっちにしろ、今の段階では決められないから、傷病休暇申請してみた。病気がこれからどうなるか予測がつかないけど、もし早めに寛解したら、給与的には転職したほうがいいのかも」
ひとまず、今の段階で早急になにかを決めなくてもいい、という状況は、葵にとっては救いだった。
カオルの車が見知った街路を走り始め、家が近づくに連れ、葵の気持ちは沈んでいった。
帰っても時生のいない家に帰ることが、どうにも辛い。
その状況を見こしていたのか、なぜか車は葵のマンションを素通りした。
「カオル?」
運転するカオルの横顔を見る。
「行きたくなったら、行けばいいんだから」
と、カオルは言った。
「しばらくは、俺ん家に泊まればいいよ」
葵は驚いた。
カオルの両親には昔会ったことがある。カオルの実家は瀟洒な戸建てだったはずだ。
「今、実家を出て一人で暮らしてるんだ。さすがに出戻るのは気まずくて。兄貴はアメリカだし、優花里は自分の実家にいる。狭いマンションだけど、別荘感覚でいいよ」
葵は黙った。ありがたかったが、そこまでカオルに甘えていいのか、わからなかった。
「結婚してた時の家じゃないよ」
慌てたように、カオルはそう、付け加えた。
「そんなに気を使わないでよ。いいよ、家に戻る。いろいろ、迷惑ばっかりかけちゃったし、これ以上は」
「カオルの家に泊まったほうがいいと思うよ」
後部座席から、優花里が言った。
「先延ばしにするみたいだけど、でも今は、ひとりの部屋に帰るのはよくないと思う」
抵抗する気力がなかった。結局は、彼らの提案に従った。
カオルは、先に優花里を彼女の家に送り届け、それから彼の住む家に向かった。
車の中で、ついにふたりきりになった。
「わかったことは、全部話して」
意を決して葵は、神妙にカオルに言った。
「うん」
と、カオルは言う。
「ゆっくり、小出しにしなくていい。カオルが知ったことを、全部話してくれていいから」
家に着いて、カオルはリビングのテーブルのそばのグレーの椅子に、葵を優しく座らせた。そういうところは昔から妙に紳士だった。
1DKの部屋は、黒とグレーで統一されている。リビングダイニングには黒い丸テーブルと、葵が座っているグレーの椅子と黒い椅子。窓の方にはグレーのソファもあって、そのそばには観葉植物もあった。スタイリッシュだ。
「今、お茶入れるから」
荷物を別室に運び入れて、彼はキッチンに入った。
「どうして別れたの?」
葵は前置きもなく突然聞いた。
「は?」
キッチンからカオルが聞き返した。
「奥さんと」
カオルは、難しい顔をして一瞬黙り、それから言った。
「価値観が全然」
ぶっきらぼうな言い方が、それだけではないことを物語っていた。
カオルはそれから、ルイボスティーを入れてくれた。先入観かもしれないが、男性の家に茶葉のセットがあるのは新鮮だった。ティーバッグで終わりにしてしまう自分とは、えらい違いだ。そういうことが自然にできる人だったんだな、と思った。知らなかった。
「どうぞ」
と、彼は葵の前にお茶を置いた。
「ありがとう」
何かの面接みたいだ、と思いながら、お茶を口に運んだ。染み入るように美味しかった。病院では決して味わえなかった、人間の暮らしの味。
「時生くんは―――」
カオルは葵の対面の黒い椅子に座ると、刑事みたいに切り出した。
「二宮時生くんは、5か月前にバイクの事故で亡くなってるんだ」
一瞬の間、空白があった。
お茶を口に運ぶ途中で、葵の手は震え、ぶるぶる震え、結局カップをテーブルに戻した。驚きのあまり声がでない。さすがにそれは、考えてもみないことだった。思わず何度か聞き返す。
葵の反応は想定内だったのだろう、カオルは葵の聞き返しに、丁寧に何度も、本当だ、と繰り返した。
「ショックを受けると思ったから、病院では言わなかった。黙っていて、ごめん」
あまりのことに、怒っていいのか泣いていいのかさっぱりわからなかった。
死んでいた、というのはどういうことなのだろう。
しかも、昨日今日の話ではない。5か月も前に。
「どういうこと?私との生活は?」
あちこちに、視線を泳がせながら葵は、誰にともなく言った。
「夢?妄想?私が狂ってたってこと?」
急激に冷えた両手を擦り合わせながら、なんとか話を理解しようとしたが、難しかった。
「そうじゃないと思う」
カオルは落ち着きはらっていて、真面目な顔で言った。
「俺はあの朝、彼と会ったから。話もしたから。これ」
彼は、一枚のハガキを葵の前に差し出した。カオル宛の、葵の結婚報告のハガキだった。
「なんで、有紀のハガキを回収しろなんて言ったんだ。俺も持ってたんだ。俺に送ったこと忘れてたの?」
淡々とした調子で、彼は言った。
「そうか」
葵は、はがきを手に取り、ぽつりと言った。
「こういうはがきだったね」
ほんとうなんだ、と、やっと思った。
「変な結婚報告だなって、思ってた。撮影、トキオって下に書いてあるだけだからな。受け取った人は、たぶん洒落でこういうのにしたと思ったんじゃないかな。旦那の名前も書いてあるし、まあ結婚したんだろうなって」
「時生は写真が大嫌いで」
葵はそう言いながら、スマホを取り出した。スクロールして、一緒に暮らしていた頃の写真を探す。葵の写真は撮りたがるが、時生は映るのを拒んだ。当然、スマホの中には時生の写真がない。ただ、葵がひとりで写る写真は、結構な枚数、あった。どれも笑顔だ。自撮りと言えば自撮りにも見えるけれど、それは時生が撮った写真だった。
「こういう報告の方が、面白いよって。写真なんて使わない結婚報告だってあるし、って」
思えばすべてが、とてもおかしなことばかりだ。
バックパッカーだから。写真にうつるのが嫌いだから。
当時はのみこめていた理由が、今はのみこめない。
確かに時生が「幽霊」だったと思わなければ、とても説明がつきそうにない。それとも葵が多重人格者になっていて、時生がしたことを自作自演していたのだろうか。その時の記憶をなくしているだけなのだろうか。
「私たち、つきあってもいなかったの?」
「いや。どうだったのかな。きみらがいつから付き合っていたのかわからないけど」
そう言って、カオルは時生が事故に遭った、という日を告げた。
それは、時生と公園で初めて会った日の、次の日だった。
泣きたかったが、泣けなかった。頭の中は真っ白で、茫然と唇をかみしめたまま、葵は黙ったままでいた。
しばらくの沈黙の後、彼は続けた。
「長野の彼の両親は、葵に会いたがってた」
それには驚いて、カオルの顔を凝視した。
「話したの?私のこと」
「長野に行ったからね。なんで訪ねて行ったか、ちゃんと話さないとおかしいだろ。葵が入院してすぐ、時生くんが働いてたコンビニに行った。店長が、彼、亡くなったんだよって。それで、とにかく長野に行って、家を訪ねてみた。仏壇に写真があったよ。ご両親は、俺の話を聞いて驚いてた。その時は怒るとか、攻撃的になるとかでもなく、ああそうですか、みたいな感じでさ、気が動転してたんだろうね、お互い。後からお母さんから電話もらったんだけど、彼の遺品のガラケーで葵の名前検索したら、あったって。葵の写真も。とても信じられる話じゃなかったけど、それ見てこの世には不思議なこともあるんですね、息子がそれほどまでにその人のことが好きだったということなんでしょうかって、言ってた」
「時生」
ついに葵は、彼の名を呼び泣き崩れた。
夢なのか。怪談なのか。
なによりも葵は、時生がこの世にいないということ、ただそのことが、身を切られるほど辛かった。
「私が代わりに死ねばよかった。時生、まだ25歳だった」
葵は、搾り出すような声で叫ぶように言った。
時生と過ごした日々が、ごちゃごちゃになって記憶の底から出てきた。ずるずると、ひっぱってもひっぱっても出てくるマジックショーのハンカチみたいに。
どこかで生きているなら、戻ってこなくてもいいと思ってた。でも、もういないなんて。いなかったなんて。
言葉にならない思いがあふれかえって、溺れそうだった。嗚咽の隙間からやっと捻り出したのは、そんな思いとは全く関係のない質問だった。
「奥さんと別れたのは、私のせいなの?」
カオルは顔をしかめて、「ちがう」と否定した。
「たぶん、誰とだって同じだった」
「カオルも、ねじれてたの?」
泣きながら葵は言った。カオルの顔が奇妙に歪む。
「そうだな。ねじれてたんだ。前は何もかも嫌で、面倒で、どうでもよかった。葵とのことも。もしかしたら、自分のことも。兄貴が優花里と出て行ったあと、親はそれまで兄貴にかけてたすべてを俺に向けた。実際、親の言う通りにしてれば、波風もたたないし、オートマティックに生きていけるって本気で思ってたこともある。でも、今は違う。時生くんに会った日以来、自分でも変わったと思う」
あの朝。
時生がカオルに会いに行った、という朝。
まだ暗い時間で、カオルは前の日の飲み会の続きで起きていて、麻布にいたのだと言った。結婚前も遊んでいたが、離婚してからはさらに輪をかけてずいぶん遊び歩いていたらしい。
「始発で帰ろうと思ってた。葵の番号で電話が来て、時生くんが会いたいって。じゃあ始発が動いたら、って言ったら、彼はタクシーで行くから待っていて欲しいと言ったんだ。ただごとじゃないなと思った」
それから、時生と夜明け前のファーストフード店で会ったのだという。
「とにかく変なんだ。俺も相当酔ってたし、寝ぼけていたんだけど、でもおかしかった。何が、って言えない。言葉じゃ言えない。とにかくこれからすぐに葵のところにかけつけてくれ、タクシーを待たせてるから、それで行ってくれって。からかうなら警察へ行くっていったんだ。でも、彼は真剣なんだ。真剣過ぎて、変なんだ。迷った。正直、迷惑だった。でも彼の言う通り待ってたタクシーでマンションに行って、納得した。葵ががりがりに痩せてて、シャワーの中に座ってて、それが間違いなく自分のせいだとわかったんだ。とんでもないことをしてしまったと思った」
あの時の事を、葵自身はうまく思い出せなかった。ぼんやりとした記憶をたどる。カオルの経験したことには説明のつけようがないが、飲み過ぎてファストフード店で眠って見た夢———と言えなくもない。
「これ、俺の考え過ぎかもしれないけど」
躊躇いながら、カオルが言った。
「道連れにしようと思ったんじゃないかな」
その言葉の禍々しさに、葵は眉をひそめる。
「きっと寂しかったんだ。一緒に逝こうとしたんじゃないかな」
そうだったのだろうか。
そうだったの、時生。
あのころ、何もかもが嫌で、面倒だった、とカオルはさっき、言った。葵も同じだった。虚ろな心で、会社と家を往復していただけの日々。
時生といると感じる大きな安堵感は、夢だったからなのだろうか。葵は、幸せな、幸せな夢を見ていたのだろうか。少しずつ、死に向かいながら。
「やっぱり骨だったんだ」
葵は泣きながらぽつりと言った。
「寝ているときの私。死んでたんだ。時生と一緒に。でも―――」
でも。
たとえすべてが葵の夢だったとしても、その夢の中で時生は、当たり前の、普通の生活をしていた。
「でも違う。違うと思う。むしろ、助けようとしてくれたんだと思う」
「葵」
手を伸ばして、カオルは葵の氷のような手を握った。
「ごめん」
カオルの声は、今まで聞いたことがないほど真摯だった。
「やっと気がついた。こんなことになって、やっと。葵は俺にとって、いちばん、大切な人だった」
「カオル」
葵は、カオルの手をそっとほどいた。
「こんなに心が千切れちゃって、もう、バラバラなんだよ、私」
カオルはうん、と言った。
「俺が、きみを、そんなふうにした」
ほどかれた手で、カオルは顔を覆った。泣いているみたいだった。
時生に出会う前の葵とカオルは、幼い自我を押し付け合って、依存しあうばかりで、傷つけ合う関係しか築けなかった。
時生はそのふたりを、ふたりともを、助けようとしたんじゃないか―――
「カオル。私」
カオルは手で顔を擦り、頷いた。目が少し赤いほかは、涙はもう見えなかった。
「長野に行ってみたい」
涙で濡れた自分の唇から、ナガノ、という言葉が漏れたとき、葵は思った。
一緒に暮らした時生は、存在していた。
時生はいた。いたんだ、あの日あの時の中に、確かに。
「眠る女 10(最終話)」に続く
眠る女
目次【全10話】
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第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話
創作大賞というお祭りの片隅で、パラパラを踊っています。