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言葉あれこれ #17 リアリティ

 dekoさんの『北風のリュート』の感想を書かせていただいた。今日は月曜日だったので、さきほどnoteを開いたら、この記事でいわゆる「コングラボード」をいただいていた。沢山の方に読んでいただいたのだなと、嬉しく、胸が熱くなっている。ありがとうございます!

 この記事の中で私は、岸部露伴の語る「リアリティ」を引用し、dekoさんの小説がいかにリアリティに溢れた小説かを、力説した。

 dekoさんの最終話のコメント欄で、小説家の酒本歩先生が、「科学的、技術的な部分で悩んでSFには振り切れなかった」とおっしゃったdekoさんに、こんなふうにコメントしていらしたのを拝読した。

これはリアリティがあるかどうか、という問題だと思うのですが、私は先日記事で「現実にあり得なくても、その小説世界でありそうなら、すべてリアリティがある」と書きました。主にミステリー、それも心理面のリアリティについて書いたのですが、SFファンタジーにおいても同様なのではないかと思っています。
「北風のリュート」で起こったことはdekoさんの創られた世界の中で、十分な説得力を持っています。そのようにストーリーを構築したご苦労に敬意を表します。

 私も酒本先生と全く同意見なのだが、そう言う意味で、私が感想文の中で引用した「リアリティ」について、少し補足しておきたい気持ちになった。

 ちなみに、コメントに出てくる酒本先生の記事はこちら。

 小説を書く人にはものすごく参考になる記事だ。

 そもそも「リアリティ」とは何だろう。
 「リアル」と「リアリティ」は何が違うんだろう。

 英語の「Reality」と日本語の「リアリティ」は少しニュアンスの違う使われ方をしているらしい。

 日本語における「リアリティ」とは、「現実感/真実性/迫真性」と説明されていることが多い。すべてに「~感」「~性」という言葉がつく。つまり「現実っぽい」ということである。必ずしも「現実」である必要はない。
 私が引用した岸部露伴のセリフも、そういうニュアンスで使われていると思う。

 「リアリティ」というのは、「虚構の世界の中で、あたかも本物であるかのような」ということが前提になる。そしてそれは物語における「説得力」につながっていると思う。「リアリティ」とは、説得力だと言い換えてもいい。現実に近ければ近いほど、リアリティーの度合いは増し、説得力が増す。

 英語の「Reality」は、「現実」「現実そのもの」である。日本語における「リアル」のニュアンスだ。「virtual reality」を日本語に訳すと「仮想(的)現実」となる。意味は日英とも「人工的に作り出した映像や音声などをあたかも現実のように感じること」なのであるが、「あたかも現実のように」のところは、英語の場合「virtual」に寄っている。

 英語圏発祥の「リアリティー番組」というのがある。日本では誹謗中傷で犠牲者が出た番組があることで今は少し下火のようではあるが、世界中でリアリティーショーじたいは今なお人気が高いと思われる。もしかしたら、英語でも「reality」の概念のズレが生じているのではないか、と思わなくもない。素人が素の顔や葛藤を晒す姿が魅力ではあるが、必ずしもそれが「本当に現実」だと思っている人ばかりではない。「ショー」であり「番組」である以上、まったく虚構が入っていないかどうか、どこまでが「現実」か、は少し曖昧だ。
 「ドキュメンタリー」となると、いっきに「リアリティー度」は増し、「これこそが現実だ」という認識なのではないかと思われるが、それでも確実に「現実」であるかどうかは、ヤラセ問題などが付きまとうので、何とも言えない。
 つまりは「度合」。
 現実と虚構というのは、実はグラデーションの世界、なのかもしれない。そしてそのグラデーションの世界の中からより現実に近い表現を選び取って読者に提示できるのが、作家と言うものなのだろう。

 生きている人が絶対に体験できないものとして「死」がある。体験した時、その人にすでに意識はない、あったとしてもそれを誰かに伝えることはできない。
 だから、自分の死を経験して小説や漫画に書くことはできない。映像には残せるかもしれないが、それを死んだ後で自分が見ることはできない。
 それでも死について考えたことや、身近な死や社会の中で見聞した死を書くことができる。自分の死についても、推測や類推を利用して想像して描くことはできるだろう。

 例えば九死に一生を得る体験をした人ならば、「死」そのものでなくても限りなく「死」に近い体験をしたことが「リアリティ」を深めるかもしれない。
 だが、果たして「九死に一生を得る体験」をしたことがない人は、リアリティのある「死」を描くことができないだろうか。確かに、体験がある人に比べて、体験がない人の文章は説得力が弱まるかもしれない。かといって、そこに読者の感情を動かす説得力が無いか、というと、それは別の話ではないか、と思う。

 私は、PASSAGEの3号店、SOLIDAの吉穂堂別館に『ジェリコー』という漫画を置いている。これが残念なことに、誰にも手に取ってもらえない、いわゆる「売れ残って」いる漫画になってしまっている。
 私はこの漫画に強く感銘を受けたので、ぜひ多くの方に読んでもらいたいと思ってSOLIDAに置いている。SOLIDAの棚を借りるときにわざわざ「ジェリコー」の名のついた棚を借りたくらいだ。

赤いところが「吉穂堂別館」
ついでに在庫をご紹介
最後に「ジェリコー」出てきた

 テオドール・ジェリコーは19世紀前半のフランスの画家で、32歳で早逝した。作品はドラクロワなどにも影響を与え、ロマン派絵画の先駆者と見なされている。

 代表作は『メデューズ号の筏』。第二次王政復古時代のフランスで、セネガルに向かう軍艦がモロッコ沖で座礁。政府が事件を隠蔽したため、筏に乗った人々が13日も漂流する、という事件が起こった。はじめ150人いた遭難者は発見された時15人だったという。筏の上で何が起こったか。考え付く限りのむごたらしい非道が行われたと聞いたジェリコーは、その絵を描くために原寸大の筏を作り、犯罪者の死体や精神病患者をひたすらスケッチし続け、極限状態の人間の阿鼻叫喚を描いた、とされている。 

 凄まじいばかりの「リアリティ」の追求だが、これによって彼は政府や美術界サロンから非難を浴び迫害され、絵は一時ルーブルに監禁された。当時の美術界の主流は新古典主義であり、写実性や現実社会の描写は評価されなかったのだ。絵を取り戻したジェリコーは外国で評価されるが、間もなく亡くなる。
 極限までリアリティを高めた作品は、リアル過ぎて人々を刺激し、嫌悪され、正当に評価されることはなかった。現在は、ルーブルでその絵が観られるらしい。中野京子さんの著作に『怖い絵』というものがあるが、その中でも紹介されている(以下のサイトでジェリコーと『メデューズ号の筏』も紹介されている)。

 漫画の作中人物である漫画家、岸部露伴の「リアル」の追求もかなりのものだ。蜘蛛を見つけて観察し始めたと思ったら「味も確かめておこう」と舐める。主人公の仗助にフルボッコにされながらも「こんないい体験をさせてもらえるなんて、杜王町に来てよかった」と言う。貪欲すぎる好奇心のためによく窮地に陥る。
 もちろん、彼は虚構の人物なので、彼自身は実在ではない。その虚構の存在である彼をして、漫画における「リアリティ」を語らしめる。作者の考え方が、如実に反映されていると思う。
 特に漫画と言う表現は「絵」であるので、カエルならカエルの形状や色や骨格や筋肉のつきかた、匂いや感触などを再現できればできるほど、リアリティは増す。特に荒唐無稽な世界を描くほど、細部のリアリティは物語に説得力をつける。

 この世で起こることをすべて経験・記憶することは不可能だ。まずせっかくの貴重な体験なのに生まれたときのことを記憶している人は少ない。学校生活や受験や留学や就活、結婚や妊娠出産、子育てや離婚や介護や病気やいじめや犯罪———経験することもあればしないこともある。職業によっては全く違う人生を歩む。性が違えば「死」と同じくらい絶対に体験できないこともある。「同じ体験をしていない人に、私の気持ちはわからない」という人もいるだろう。互いに意見が違うことを、経験の有無のせいにする人もいる。

 そこを、資料・実地調査やインタビュー、取材などによって知識として取り込み、想像力で補う力こそが作家に求められるものなのだと思う。必ずしも現実を「リアル」に描くことだけではなく、いかに「リアル」を感じる描写が描けるか。たとえ体験は豊富で本当のことを書いても、表現が「嘘っぽい」なら、それは説得力に欠ける、ということになる。
 経験だけに頼って書く、とか、経験していないことは書けないというのは、やはり作家としては不十分な部分があるのではないか。

 「ファンタジー」が苦手だ、という人は多い。
 そういう人は、口をそろえて、荒唐無稽であり得ないことに耐えられない、現実に無いものを想像するのが苦痛だ、という。彼らは物語に「リアリティ」もへったくれもない、と言うだろう。
 現実にあったこと、ルポやドキュメンタリー以外には、読んだり観たりするのが嫌だ、という人にとっては、「リアリティ」は現実にこそあるもので会って、創作にはない、と考えているかもしれない。
 何か特定の職場を舞台にした時に、その仕事の現職の人にとっては、架空の設定がもどかしく、場合によっては現実は違うのだとイライラすることもあるだろう。
 「リアリティ」の定義や実感も、人に寄ってずいぶん違うのだろうとは思う。

 確かに、どのような創作も、徹底的に調べたり調査をするなどして、現実に存在するメカニックやシステム、設定などのデザインがしっかりしていればいるほど、想像の助けになるし、臨場感が得られる。でも「その時代」に想像し得る最新鋭の機器やシステムを克明に描いたとして、逆に克明過ぎれば過ぎるほどすぐに「古く」もなるのも事実だ。時代との齟齬は広がっていくばかりだ。そこにもやはり、作者のさじ加減が物を言うのだろう。

 『ハリー・ポッター』で「分霊箱」が出てきた時、私はにわかにそれを理解することができなかった。魔法の訓練をして、呪文を沢山覚える以外に、あの世界には多くのギミックをもつ「魔法の道具」が存在している。「組み分け帽」はわかりやすいが、「分霊箱」は必ずしも実体がない場合もある。わかりにくかった。でもそれが結局ハリーの傷の理由に繋がり、ハリーがヴォルテモードの分霊箱になっていたことに最後、衝撃を受けた。
 そして、ふと本から顔を上げて現実に戻ってくると、この世にそんなものは「存在しない」。にもかかわらず、ハリーポッターの世界の中でのみ存在するものに対し、私は強いリアリティを感じ、説得力を感じているのであった。

 それが、物語における「リアリティ」と言うものなのだと思う。
 ファンタジーの世界の中では、物事に整合性があり、読者が納得する説得力があるなら、たとえ現実にその「モノ」が存在しなくても、その物語には「リアリティ」が存在する、と言っていいのではないか。

 少しとりとめがないが、そんなことを考えた。