【創作大賞2024】眠る女 2
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2
夫が帰ってこなかった、という事実を葵が知ったのは、火曜日の朝だった。
早朝、まだ暗いうちに目が覚めて、
「ああ、よかった、月曜日だ」
と思った。月曜の明け方なら会社に遅刻することはない。
それから羽根布団にうずもれていた全裸の重い体を地球から引きはがし、重力ごと引きずって、這うようにしてリビングにたどり着いた。怠過ぎる身体をソファに横たえて、昼寝用のブランケットを、苦労しながら体に巻き付ける。
なんだか寒い。力が入らない。
手に持っていたスマホを顔の前に持ってくるだけでもやっとだったが、待ち受け画面を確かめて愕然とした。
日付は、火曜日になっていた。
冷房が効いて冷え冷えとした家の中には、葵以外の生き物の感じがまったくなかった。
夫はいない。こんな明け方に。
ついに、くるべき時がきた、と葵は思った。こんなことは、とっくに予想出来ることだったのだ。
衝撃のあまりふらつきながら起き上がり、ようやく衣服を身に着ける。手近にあったシャツを着たが、手が震えてボタンがかけられない。ひとつふたつかけて諦めて、いつから夫がいなかったのか、這いずるようにして形跡を捜した。
学生時代に就職のために新聞を取り始めてから、新聞の要らないネット時代になっても、葵は紙の新聞を取っている。古い親世代の観念と馬鹿にされても、それもひとつの知性の証だと思っていた。
リビングのテーブルの上に、金曜日の朝の新聞があった。それ以後の新聞は部屋にない。ということは、夫は金曜日の朝、新聞を取り込んでから出かけたのだ。もう、何日も帰っていないのだ。リビングのエアコンもつけっぱなしで。
その間、葵はまるで死んだように眠っていた。ひょっとしたら、眠っている間の自分は、本当に骨だったのではないか。
不思議に、空腹を感じなかった。まるで冬眠だ。トイレにも行かず、食事も取らないで4日も眠ったのははじめてだった。
あまりのことに、頭の芯がずんと重かった。考えがまとまらない。ぼんやりと潤んだ頭をはっきりさせようと浴室に行き、身体に引っ掛かっていただけのようなシャツを脱ごうとしたが、ボタンが外せない。そのままでシャワーを浴びようとしたのだが、今度はなぜかお湯が出ない。冷たい水に驚き止めようと思ったのに、手が滑ってうまく止めることができなかった。
頭と体がうまく連動しない。修業僧のようにシャワーの水滴に打たれながら、うつろな目でバスタブのふちに座った。
そのとき、マンションのドアが開く音がした。
一瞬、時生かな、と思う。でも、ドアの開け方で分かる。彼じゃない。
もう、強盗でも、空き巣でも、なんでもいいと思った。葵は身じろぎもしないでそこにじっとしていた。
その時、バスルームのドアがばたん、と大仰な音を立てて開いた。
「何してる!大丈夫か!」
カオルだった。
葵は呆然と目を上げた。
「カ、カオル……?」
カオルは、飛びつくように濡れたシャツ一枚の葵を抱きしめた。葵のからだは小動物のように震えて、カオルのシャツを濡らした。
「よかった。死んでるんじゃないかと思った」
カオルが力任せに抱きしめるので、ますます混乱した。ここは自分のうち。夫が出ていって、カオルが帰ってきた。どうなっているんだろう。
バスタオルを身体に掛けられて、カオルが言うがままにバスルームを出て、やっとまともに服を身に着けた。カオルは、葵をソファーに横にならせた。
「大丈夫だよ。横になるほどじゃない」
身体の震えがおさまってきたのでそう言うと、カオルは青ざめた顔で神託を告げるように、言った。
「あのな、今朝、きみの旦那が俺の所に来た」
えっと素っ頓狂な声が出た。
どうしてそんなことになるのだろう、という思いと、時生は行方不明ではないのだ、という安堵が交錯した。
「俺に葵の所に行って欲しいって」
「どういうこと?」
いよいよ不審に思って声を潜めると、何故かカオルまで声を潜めた。
「俺もなんで俺なんだ、と思った。でも、やっぱり来てよかった」
「あのひとは?時生は?どこに行ったの?」
「わからない。でもすごく―――様子が変だった」
「変?変、って?」
「うまく言えないけど、幽霊みたいだった。恐いっていうんじゃないけど、存在感ないんだ。ぜんぜん。気味が悪いほど」
ばかばかしい、と思った。来てくれてありがとう、でもあの人が帰ってくる前に帰ってよ、と言いたかったのだが、なぜだか言葉が出てこない。
カオルは虚ろな葵の様子を見て話を続けるのを諦めたのか、思い立ったようにキッチンに行き、ティファールのポットでお湯を沸かした。まるで勝手知ったる家だ。それもそのはずだ。時生と暮らすほんの少し前まで、彼はこの家に出入りしていた。
ソファからはカオルの思いつめたような横顔が見える。
その横顔が、葵の方を見ないままに言葉を紡いだ。
「あの人が言ってた。無理に暮らしたから、葵がひどく”損なわれた”って。”損なわれた”なんて、普通言うか。どうしても葵と暮らしたかったけれど、これ以上一緒にいると死んでしまうかもしれないって」
それは、独り言のようだった。それからおもむろに葵に向き直り、真剣な顔つきで尋ねた。
「あの人、なんかおかしいと感じることはなかったのか」
不愉快な質問に、憮然として言葉を返した。
「べつに。普通の人だよ」
「変になったのはいつからなんだ?」
葵の体調が、ということだろう。思い出そうとしたらまた頭痛がして、こめかみを押さえる。
「さあ。カオルの結婚式の後、かな」
「それより前は?」
「別に。何も。ちょっと体調崩しただけ。それだけ」
ティーバッグの紅茶を入れ、そこに蜂蜜を垂らすと、カオルはそれをソファ横のテーブルに置き、自分もソファの空いているところに座った。ため息を吐く。その一連の動作を、横になったままただじっと見守っていた。
葵は普段から、紅茶に蜂蜜を入れる。だからキッチンにも、すぐに入れられるように準備してある。カオルの何気ない動作に自分の癖が染み込んでいることを、葵は驚きを持ってみつめた。
彼がそれを飲む気配はない。
葵にもすすめない。
ただ落ち着くためだけに、紅茶を淹れたようにみえた。
「カオルの言ってること、さっぱりわからない」
出た声は掠れていた。
紅茶が飲みたいわけではなかったが、ひとまず起き上がろうとした。くらりと身体が揺れる。それは、思ってもみないほど強い立ち眩みだった。手で支えるのもおぼつかないほどで、カオルがいてくれなかったら、頭から床に昏倒していただろう。
「大丈夫か」
倒れこむ前にかろうじて葵を捕まえて、カオルが、何度目かの大丈夫か、を口にした。大丈夫か、なんて気軽に人に聞かないでよ、と思う。
「大丈夫だってば」
大丈夫なはずがなかった。ぐらぐらした。身体が芯から冷えていた。
いったい何時間、水のシャワーを浴びていたのだろう。数分の事だと思っていた。時間の感覚が変だ。
怖くなって、冷え切った体を、カオルに押しつけた。
「私、寝てたの。寝てる間に、あの人が出ていった。出ていくのも当たり前。ここ何日か、私とあの人、ほとんど喋らなかった。それどころか、顔もあわせなかった」
縋りついたカオルの体温で、ようやく、少しずつ言葉が出てきた。
「葵」
「とにかく寝てたの、死んでいたのかもね。ときどき思うの。眠っている時に誰かが私を撮影したら、白い骨なんじゃないかって」
「やめろよ」
カオルは葵の身体をまた、抱きしめた。
「こんなに痩せて」
その声に、リビングに置いたスタンドミラーを何の気なしに見た。そこに映った自分の顔に驚愕する。
こけた頬、落ち窪んだ目、色をなくした唇。
―――なに、これ?
目をそらす。まさか。まさか。自分?
毎日、鏡で顔を見ていたはず。たった数日で、あんな亡霊のような顔になるわけがない。他人の顔のようだった。それどころかゾンビのようだった。
やだ、と叫んだつもりの声が、母音しか残さない。
カオルのシャツに顔を伏せた。彼に縋りつく。必死にしがみついているつもりだが、手に力が入らなかった。急激に身体が重くなっていくのを感じる。これまで経験したことのない脱力感だ。
「4日もただ寝ていたんだ。人間にそんな事ができるのかわからないけど、とにかく眠っている間に、時間が4日分経ったんだ。衰弱してるんだ。大丈夫なわけないんだ。悪かった。ごめん……」
だんだん、カオルの言葉が遠く聞こえる。頭が、ぼんやりしてきた。
眠りに落ちる時のパターンだ。
また、眠るのだろうか。
4日も寝て、起きたばかりなのに。
会社に退職願を出すこともできない、と薄れ行く意識の中で考えた。
そうしているうちにも、抗えない眠りの渦の中にひっぱられていく。蟻地獄のようにずぶずぶと引きこまれて、どうして、とか、なぜ、とか、そんな言葉すらもう浮かび上がらない。
そしてほどなく、混沌の中へ飛び込むように、葵は再びの眠りに落ちた。
「眠る女 3」に続く
眠る女
目次【全10話】
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話
創作大賞というお祭りの片隅で、フラダンスを踊っています。