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【創作大賞2024】眠る女 5

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 カオルとの対面は、オンラインだった。
 タブレットが身体を起こさなくてもいい位置に据え付けられ、カオルが画面に映ったのを確認すると、看護師も出ていった。カオルの存在はきっと病院でも噂になっているに違いない。

「ごめんね、いろいろ、迷惑、かけて」
 掠れた声でそう言うと、カオルは額にかかる前髪を払うようにして、言った。
「そんなの、気にするな。なにも心配しなくていい」
「あれから、なにか、わかった……?」
 カオルは、黙ったままなにか考え込んだ。そして、
「途中で経過を言えば混乱するだけだろうけど、いつまた眠ってしまうかわからないっていうから、言うぞ」
 葵は肯いた。もとより、覚悟はできている。
「第一に。葵は結婚していなかった。戸籍は浮島姓のままだった」

―――時生が、婚姻届を出した。

「第二に。二宮にのみや時生ときおは確かに存在する。書類上は。戸籍もある。住民票も。だけど、その戸籍も住民票も、住んでいたあのマンションじゃなかった。長野県なんだ。今、調べてる」

―――長野。

「第三に。二宮時生が勤めていた会社は存在していない」

―――彼は毎日どこに出かけていたのだろう。

「一度も変だと思ったことはないか?」

―――ない。……ないけど確かに、変だと思わなかったことが、今思えば変だ。

 葵の会社には、結婚の事実を知らせていなかった。もちろん、ずっとそのままでいようと思ったわけではなく、婚姻届けを出した当時時生が無職だったことがその理由だ。
 彼が葵のマンションに転がり込んだだけで、彼の扶養に入るわけでもないし、逆でもない。流動的な状態では、なんら知らせるメリットがないと思った。彼が仕事を見つけたら改めて会社に届けようと思ったのだが、実際に彼が仕事に就いたころに葵が睡眠障害を発症しために、逆に自分が仕事を辞めなければいけないかもしれない危機を迎えてしまった。結婚の手続きどころではなくなってしまい、今に至る。
 思えば時生は、葵の仕事を自分の仕事に絡めて今後どうすればいいといった話は一切、しなかった。その後のことを考えれば、葵の会社に婚姻関係を知らせて同居の配偶者の立場を明確にする処置をとるなど、色々な方法が考えられたはずなのだが。

 結婚式もしなかった。二度目に会った時、時生は親がいない、早くに亡くなったと葵に告げた。葵も両親はすでになかったので、式の必要性を感じなかった。
 式の代わりに、友達や遠い親戚の一部にはがきを出した。時生の親戚にも、確かに送った。ほんの数枚だったから手書きで、時生の書いたリストに従って住所を書いたのは葵だ。長野の住所なんてひとつもなかった。あれは、では、出鱈目だったのだろうか。

 婚姻届けを出したのも、はがきを出したのも時生だ。さすがに婚姻届けは土日だろうが深夜だろうが出せるのだから、一緒に出したい、と言ったのだが、だいじょうぶ、僕を信用してよ、と押し切られた。
 結婚のはがきも、葵の友人にはちゃんと届いていたから出したものと思っていた。まさか彼が自分のほうだけ出したふりをしていたなんて、想像もしなかった。
「結婚詐欺?」
 思わず口から出た。
「だまし取られたものがあるか?金とか、品物とか」
 カオルの声は、交番の警官のように真面目腐っている。
「ない」
 ない、けど。
「どうして、彼は、嘘を……?」
 そう言いながら葵は、自分が自分の心の闇に気づかぬふりをしていたことに、改めて気づいていた。
 ふたりで暮らし始めたころ、時生がセックスを拒絶し「したくない」といったことで、葵の中には「ほんとうにこれでいいのか」という気持ちが芽生えていたのだと思う。それが、彼との関係を社会的に強固にしたいと思わなかったいちばんの原因のような気がする。
 婚姻届けが受理されたかどうかも確かめず、会社にも届けなかったなんて、こうなってみると杜撰で間抜けだとしか言いようがないが、真の理由は、おそらくそれだった。そしてどこかで、カオルへの思いも捨てきれていなかったのだろう。だから―――

 その時、カオルは少し横を向き、誰かに頷きかけた。
 誰かが一緒にいるらしい。
 一対一だと思っていたので、にわかに緊張する。もしかして、彼の奥さんが一緒に来ているのだろうか。葵は仲睦まじい夫婦に、同情され、憐れまれているのだろうか。

 女性がひとり、画面に登場した。そして、微笑んだ。天使の笑みで。
「はじめまして。私、カオルの姉です。優花里ゆかりといいます」
 姉?カオルの?
 カオルの兄弟は、お兄さんだけだったはずだ。カオルの結婚式では会っていない。実際いるのを知っているお兄さんですら、外国にいるとかで結婚式には出ていなかったのだ。にわかには、信じられなかった。
「ええっと、義理の、姉です。カオルの兄の、ヒカルの」
 ああ、そういうことか、と納得が行く。
「外国に、いたんじゃないんですか」
 ゆっくり、息を押し出しながら、聞いてみる。
「私だけ、戻ってるんです。びっくりしたでしょう、私が現れて」
 おっとりとした話し方で、彼女は言った。ふと、彼女がカオル、と呼び捨てにすることが気になった。本当の姉弟きょうだいみたいだ。
 葵の考えていることがなんとなく分かったのか、彼女はいい訳するように言った。
「カオルたちきょうだいとは従姉妹いとこ同士なんです。昔から、あなたの事はカオルからよく聞いていたの。こんな形だけれど、お会いできて嬉しいです」
 カオルが自分のことを身内に話していたということに、驚いていた。どんなに風に話していたのだろう。腐れ縁の友達だとでも、言っていたのだろうか。カオルが葵にしたことは、数え切れない裏切りと、侮辱。ただの「都合のいいセフレ」だった葵のことを、従姉妹に対していったいどんなふうに話していたというのだろう。
「ごめんなさい、少ししゃべり過ぎましたね」
そういって、彼女はカオルに頷いた。
「あのさ、俺も仕事があるから、時生……さんのことを調べるにしても、ひとりじゃ限界がある。たまたま優佳里が里帰りしてたから、色々手伝ってもらってるんだ。葵次第だけど、部屋に、入ってもいいか」
「誰が?カオルと、お義姉ねえさんが?」
「葵次第だ。俺だけなら、でもいいし、ふたりとも、でもいい。どっちも入るなというなら、入らない」
「うん、入ってもいいけど。うち、何にもないよ。時生のものも少ないし」
「手がかりが欲しいんだ、少しでも」
「うん。わかった。鍵は―――」
 ああそうか、と思う。カオルが救急車を呼んだか、タクシーで病院まで送り届けてくれたのなら、最後に施錠したのは、カオルなのだ。
「余計なものは触らないように注意しますね」
 優佳里さんは慎重に言った。
「すみません、ご迷惑かけます」
 やっとそう言ってから、そう言えば台所に洗い物を残していたんじゃないかと気になった。具合が悪くなってからはほとんど外で食事を済ませていたが、睡眠が不規則になってからは果たして自分が何を食べていたのかも記憶にない。彼らの好意に甘えて、ゴミがあれば捨ててくれるように頼んだ。

「調べてみるからな。だから、元気になることだけ考えてな」
「カオル。聞いていいのかわからないけど、奥さんは?」
 カオルは、苦笑した。そして、昔で言う「成田離婚」だったと言った。
 驚いたし、悪いと思ったけれど安心もした。彼に家庭があって、自分のことで煩わせているのだとしたら、それはあまりにも気がとがめる。
「それで、優しくしてくれたの」
 思いがけず、変なことを口走っていた。でもカオルは、茶化しもせず、まぜっかえしもせず、はぐらかしもしないでまっすぐに言った。
「葵には、悪いことをした。だから」
 ああ、そうか。償い、だね。そうだね。あなたは、これまであまりに自分勝手だった。
「あの時の旦那の様子が変だったんだ。どうにかしなきゃ、取り返しのつかないことになる気がしたんだ」

 ふうん。でも、許してあげる。
 時生を、探してくれたら。

 静かに、カオルの声が遠ざかっていく。葵はまた眠りの湖のふちに立っていた。暗い、粘液質の重いその水の中に、入る。

 もう、湖の底には、何もないのに。

 なにも。

眠る女 6」に続く


眠る女

目次【全10話】

第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話


 創作大賞というお祭りの片隅で、ヒップホップを踊っています。