言葉あれこれ #16 イケメン
イケメン、と書いたが、男性に限る話をしようとしているわけではないので「イケメン」というタイトルは違う気がしている。
ちなみに困った時の広辞苑にはこう書いてある。
私は最初、「いけてる」+「メンズ」だと思っていたのだが、広辞苑ではもっと絞り込まれた「顔」の意味しか載っていなかったので少し驚いた。
Wikipediaの解説はまた違う。「現代の日本語でゲイ用語からの派生語である。意味は「魅力的な人、特に面貌が魅力的な人」の事を指す俗語である。類語に二枚目、ハンサム、男前など。」となっている。
このWikipediaの概要がなかなか興味深い。
ものすごく、詳しい。
だけど語源になった男性が全然わからない・・・
まあ、とりあえずここ30年ほどの、主に平成からの言葉であるようだ。それより以前は「ハンサム」などがこれに当たる言葉だろうか。
女性に対する場合はどのように言うのだろうか。やはり「美人」だろうか。明治時代から昭和にかけては「シャン」という言葉があったようだ。広辞苑には「ドイツ語由来。(旧制高校の学生語)美人」とだけ書いてある。ちなみに「美人」は中国の後宮で妃嬪のランクなので、基本的に女性に使うのが正しいらしい。
英語だと「beautiful」「good-looking」などは男女ともに使えるらしい。英語はなんとなくニュアンスと単語がストレートに結びついていて、そのへんが世界の公用語になった理由なのかもしれない、と思ったりする。単語のもつ意味がシンプルで齟齬が少ない。他言語より「含み」みたいなものが薄い気がする。いわゆる「ローコンテクスト」というものだろうか。
「ハイコンテクスト(高文脈)」(空気を読む文化)と「ローコンテクスト(低文脈)」(言葉で伝える文化)というのは、アメリカのの文化人類学者エドワード・T・ホールのエッセー的な書籍によるものらしく、必ずしも研究レベルの根拠があるわけではないようだが、世界的に広く知られている概念だ。良い悪いというものではなく、文化の違い。
さてこのイケメン。
誰かにある人のことを紹介するときに「イケメン」「イケメンじゃないけどいい人」みたいな伝え方をしたりされたりすることがあるけれど、実際会ってみたらイケメンって何だっけ、と思うことがしばしばある。
昨今のジェンダーレス志向もあって若い人の間ではあまり使われなくなっているのかなと思ったが、そうでもないらしい。ルッキズムというのは人間の根源的な本能に基づくものなのだろう。昨今の高校生ですね毛が生えているのを見たことがないし、中学にはいるときに二重の美容整形をするために親子で整形外科クリニックを訪れることも珍しくないらしい。18歳成人になって最も多い相談は美容クリニックとのトラブルだとも聞く。
技術的に美容に関する施術が簡便になってもいるだろうし、昔より垣根が低くなっているのだろう。美醜によって学校カーストが存在したり、社会的ヒエラルキーがあるというのは、決して軽視していいことではない。それによって命も脅かされる人が存在していることは事実である。
古事記でもイザナギとイザナミが
と言い合って国生みしていたのだから、こういう概念は永遠普遍のものかもしれない。古事記には、男から先に言わないとダメ、みたいなことが出てくるのが玉に瑕だが、まあ、陰陽を考えれば古来こういう「役割」的なものは存在しただろうし、このカップルの愛の終わりには「現世」と「黄泉の国」と棲む場所が別れていくのだから、そういうもの、というしかない。少し話がズレるが、男と女は権利がどうとか平等がどうということ以前に「同じもの」ではない。どうしても同じがいいならカタツムリに生まれ変わるしかない。
ただこの、「えをとこ」「えをとめ」というものは、どちらかというと英語における「attractive(魅力的)」と言った意味合いに思える。きれいとかかわいいとかよりも、もう少し全人格的な、そしてもっと性的な意味合いを含む「attractive(魅力的)」が正解な気がする。ただし、それをうまくひとことで説明する日本語は、意外とない。「イイ男!」「イイ女!」みたいになると、なにか伝えきれていない気持ちがする。
例えば「イイ女」を日本語で表現するには、こんな風に言葉を尽くさなければいけないのかもしれない。
ちなみにここで「春琴抄」を例に出したのは、たまたま最近読む機会があったということと、「春琴抄」では主人公である春琴と従者であり愛人である佐助が最後はふたりとも盲目となり、最初は佐助の視線があったが、最終的には第三者の、しかも伝聞と言った形での間接的な表現しかないという意味で、視覚を遮断された小説であるからだ。彼らの結びつきはルッキズムを超えたところにあり、なおかつルッキズムの極致でもある。「愛する人の美しい姿だけを覚えているために目をつぶす」トンデモ話。
ちなみに、小説の中での登場人物の描写に関しては、海外なら「綺麗にカールした鳶色の髪に瞳は深い海のように碧い」「滑らかな黒檀のような肌」などと色彩的な比喩で表現できるところがあるけれど、黒い目に黒髪、平坦な顔立ちの日本人の差異を表現するのは難しい。身長や体重や体格や癖などで人物を表現していくことが多くなる。描写じたいに関しても、洋の東西を問わず、あまり詳しく書かないことで読者の想像にゆだねる作家もいれば、自分の中にあるイメージを克明に表現するだけでなく、自分でイラストを描いたりする作家もいて、色々だ。
しかも、個性的な身体的特徴を表現する語彙は色々あっても、美しいことを上手く伝える描写はこれまた難しい。結局「きれい」「美しい」などという紋切り型の表現にならざるをえなかったりする。先の谷崎潤一郎の「肉体感覚」はやはり流石なのである。ありありと目に浮かぶような「自分の頬より柔らかなお師匠さんの踵」。フェティシズムと官能による見事な「美」の描写というしかない。
ルッキズムというのは、しばしば私の中で「はて」と疑問になることのひとつではある。とはいえ、それがこの世に存在し、人間関係や就職など、様々な事柄を左右し得ることは、了解している。以前それで、こんな記事も書いた。
実際、ほれぼれするような「イケメン」や「美人」というのは日常の中にもちゃんといる。でも個人的に「イケメン」に「イケメン」と言ったり、みんなの前で「イケメンだね」と褒めたり、「あの人イケメンだよね」と噂したりするのがあまり好きではない。そう言っている人を見るのも、あまり好ましくない。
男性に対しても女性に対しても、もちろん容姿の良さは美点だと思うのだが、その点だけを強調して伝えることを、あまりいいことだと思わないのだ。相手の美点を褒めることは善いことなのかもしれないし、相手も喜ぶことなのかもしれないが、やはり違う語彙で「attractive(魅力的)」であることを伝えられたらいいんじゃないかな、といつも思う。
特にこのように思うようになったのには、息子が園児の時の経験にいきつく。
息子は生まれつき目に病気があったので、幼児のころは目のことで他人からなにか言われることが多かった。
2人以上の集団の中で殊更に顔のよいAを褒めるのと、AとBしかいなくてAだけを褒めるのは意味合いが異なってくる。芸能人の中でこの人が好みだとか好きだということとも違う。
それは別になんということはない会話だった。でも、自分のことだったとしても当然悲しかっただろうが、母親である私は倍、傷ついた。幸いにも、子供自身はそのことは知らないけれど、思春期に同じことがあったら彼自身が傷ついただろう。子供だからってあんなふうに、あからさまに容姿を比べていいはずがない。
少なくとも誰かを「特別」にすれば、その他の人は多かれ少なかれ「自分は特別ではない」という思いを抱くものだ。強い光を当てると、そこ以外には影が出来てしまうものなのだから。
人は見た目が9割、という本があったが、これは「メラビアンの法則」を過大評価した結果らしく、メラビアンの実験では「言語・視覚・聴覚」のイメージが矛盾した時に限って、という枕詞がつくらしい。なんらかの違和感のある情報があった場合に限り、「言語7%、聴覚38%、視覚55%」と、視覚が優先される結果になるようだ。必ずしも、第一印象ですべてが決まるわけではない。
確かに、美しいものは美しい。
美意識や審美眼というものも、大切なものだ。
他人に不快を抱かせないよう、できるだけ良い印象を持ってもらうための努力はあっていいし、それはこの社会で生きる上でも大事な努力だと思う。
それでも、初対面の第一声で「あなたは美しい」とは、言わなくてもいいような気がする。さすがにあからさまにその逆を言う人はいないと思うが、相手の尊厳にかかわる容姿の話は、やはりしてはいけないだろう。
外見を褒められることがうれしい人だっているし、けなされるより褒められて悪い気などはしないと思うが、綺麗な人はそんなことは言われなれていて「またか」と思うかもしれないし、自分の利点はそれだけかと思う人もいるかもしれない。
好みというのは表明すると、偏見にもつながってしまう。
自分はイケメンに会っても相手を「イケメン」とは言わないと思うが、イケメンにイケメンと言わないのも失礼に当たるだろうか。
みなさんは、どう思われるだろう。