【創作大賞2024】眠る女 4
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4
夢を見た。
カオルが突然家にやってきたあの時の夢だった。
葵がシャワーを浴びていると、時生が帰ってきた。時生は激昂してカオルに殴り掛かり、彼と葵を罵り始める。彼らは殴り合いになり、葵は長い爪で時生の背をかきむしった。
爪は刃物のように鋭利で、シャツが破け、血が浴室に飛び散って、そのうち時生の肉体は引き裂かれた。細かく割ける肉。真っ赤な皮膚が、爪の間に食い込み―――そして時生は息絶えた。
ああ殺してしまった、と葵は絶望した。
その景観のあまりの気持ち悪さに吐く。嘔吐が止まらない。浴槽に、ひっきりなしに吐く。吐しゃ物はなぜか、浴槽に溜まっていく。普通の吐しゃ物ではない。得体の知れないもの。なにか、身体の中に溜まっていた、汚いもの。土のような、汚水のような、ヘドロのような、なにか。
身体を折るようにして苦しむ葵を冷ややかにみている、もうひとりの葵が顔を背けながら言う。
三半規管がやられているのね。
水が溜まっているんだよ、三半規管に。だから耳鳴りがするでしょう。
その言葉に、強い、どくどくという音がボレロのようにクレッシェンドして聞こえ始める。ああ嫌だ、と思う。耳から目から、何かが流れ出る。止まらない。ああどうしよう、どうしよう。
びくん、と身体が跳ねて目が覚めた。
ひどく汗をかいていることがわかった。
何人もの人の気配を感じる。薄く、目を開ける。数人の医師や看護師。
「目覚めました」
冷厳とも言える看護師の緊張した声が、耳に届いた。
「血圧、心拍、ともに正常値です」
川を泳ぎ切ったように疲れていた。その疲労感の中で、冷静に思う。
自分は、薬で寝ていたわけじゃない―――また「眠った」のだ。麻酔や薬で寝たのなら、きっと夢はみない。少なくとも、あんな夢は。
「浮島さん、聞こえますか」
葵はなんとか肯いた。声をかけたのは、如月医師だった。葵の顔を覗き込んでいる。その表情からは、どんな感情も伺えない。緊迫感だけは、伝わってきた。
「浮島さん。夢、見てましたか」
葵はまた肯いた。
「やっぱり。計測の間違いではありません。脳波からしても、浮島さんは”正常に”眠っていたようです」
彼女は隣りにいた年輩の男性医師にそう言った。
「しかし」
男性の医師は、不可解を絵に描いたような表情をしていた。あきらかに、彼は当惑している。如月より立場が上の医師であろうことはなんとなく察しがつく。その彼が、首をかしげた。
「二宮さん」
彼は、葵の顔を覗き込んで、今度は結婚してからの苗字を呼び、はっきりと聞こえるように話した。
「わたしは有野と言います。あなたは、先日突然自宅で眠りこみ、その4日後に目覚めた。覚えていますか?」
葵は、またしても肯く。肯くことしかできない。
声がでなかった。鼻には前よりも太いチューブが差し込まれ、酸素マスクまでしてていた。
「今は、あれからさらに3日経過しています」
なんとなく、そんな事だろうと思った。自虐的な気持でそう思う。
意識だけは、どんどんはっきりしてきた。もう、眠ってしまうことなんてありえないと思えるほどに。
ああ。夫は、時生は、どこへ行ってしまったんだろう。もう、帰ってこないんだろうか。自分の病気のことは、知らないんだろうか。知っていても、もう関わるつもりはないのだろうか。
さまざまな思いが交錯した。
葵は、処置を施す看護師に身をゆだねながら、医師に「話したい、チューブをはずしてくれ」と、なんとか訴えようとした。
手に力が入らず苦労したが、どうにかそれは伝わり、一時的にチューブと酸素マスクをはずしてもらう。はずれると、のどが痛んだ。声を振り絞る。
「わたし、なんの、病気、ですか」
医師たちは、ちらりと目を見合わせた。有野が答えた。
「血液検査の結果は正常です。栄養失調で貧血状態ということを除けば。エコーやCTの結果も異常なし。脳梗塞や脳腫瘍、脳血栓の痕跡もない。メラトニンの異常分泌でもない。ナルコレプシーが疑われますが、通常のナルコレプシーですと、短い睡眠で覚醒することがほとんどです。今わかっているのは、あなたがまるで冬眠しているように、仮死状態に近い形で眠っているということだけです。眠っている間は、通常の睡眠と同じようにレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すんですが、その間隔が非常に長い。そして呼吸が浅く、少ない。それから脈が非常に遅い。正直に言って、私にはこの病気の原因はまだわかりません。とにかく、通常の睡眠状態を取り戻せるように、我々も最善を尽くします」
どう反応していいかわからなかった。
「冬眠」「仮死状態」というのは薄々感じていたことだったが、医師も原因がわからず困惑しているというのであれば、どうすることもできない。そんなことが普通の人間に起り得るのか、などという疑問は脇においた。
葵は、質問を変えた。
「夫は……」
その質問には、如月が答えた。
「気を落とさないでね。行方が分からないの。お友達の柏木さんという方がご主人の捜索もして下さっているみたいです。起きたばかりのあなたに、沢山のことをいちどにお話してごめんなさいね。あなたがまた、いつまた眠ってしまうかわたしたちにもわからないので、確認を取らせていただきたいことが色々あるんです」
如月は、はきはきした口調を崩さずにそう言った。
葵は黙って肯いた。そして肯きながら、たぶん彼はどこにもいない、と思った。時生は去った。葵のもとから。きっと永遠に。
「柏木さんに、会います?」
如月は、さらに言った。
葵は、再び肯いた。
「眠る女 5」に続く
※連載の都合上、1話の文字数にばらつきがあります。
3話と4話は比較的短いので連続で投稿しますが、5話以降は1日1回更新になります。
眠る女
目次【全10話】
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話
創作大賞というお祭りの片隅で、サルサを踊っています。