創作大賞感想文【針を置いたらあの海へ/早時期仮名子】
初めて仮名子さんの小説を読んだとき、「みぃつけた」と思った(なんかこういうホラー映画あるらしいですね。怖いですね怖いですね)。
しばらく無言で(?)連載を読んでいたのだけれど、ある時我慢できなくなり、こちらの記事にコメントした。
そう。当時、仮名子さんは「紗綾子さん」だった。「小説を書いたことがない」とタイトルにあったが「絶対、嘘」と思った。笑
その後、ペンネームがいくつか変わったのだが、その間、小説の方も着々と変化を遂げた。というか、彼女のスタイルは、note上で時系列を追ってリアル改稿していくスタイルなのだ。アイディアや、思いついたことなどがあれば、ためらわずタイトルを変え、設定を変え、元に戻し、また書きなおす。
noteは、投稿した後も記事の内容を変えられる。
その利点を最大限利用して、推敲した過程や、コメントなどの反応をみながら、小説を変化させていく。小説を書くために努力する過程を、つぶやきなどに赤裸々に綴る。その姿勢は、ひたむきで、真摯で、情熱がある。
「だが」ではなく、冗談抜きで「本気の」情熱があるのだ。
この情熱には、どこかで見覚えがあるな、と最近思った。
昨年の創作大賞を受賞された秋谷さんが、こういうスタイルのnoterさんだった。いや、そうなのかどうか、実はわからない。私は残念ながら、noteの中では交流がほとんどなかったので、飽くまで外側から眺めていた個人の感想だ。これが失礼なことに当たる発言なら申し訳ない。
連載を始めても、納得が行かないと、潔く書きなおしたり書くこと自体をやめ、別の原稿に移る。これは創作活動をしていると、意外とできないことなのだ。秋谷さんの姿勢、自分の小説の向上への情熱や飽くなき探求は、はたから見ていても眩しいほどだった。だから、創作大賞受賞には全く驚かなかった。当たり前のような気がしていた。
私の中で、仮名子さんは、「noteの中から小説家になっていく人」のひとり、そう願ってやまないかたのひとりである。文章はもともとすごく上手なかただと思っていたけれど、改稿を繰り返してさらにどんどん良くなっていくのを目にするにつけ、おおぅ、と感嘆の声が出てしまう。
当初は、あまり小説が読まれないことに焦りを感じていらっしゃったようなつぶやきも目にしたけれど、「いやそれは、単にnoteの特徴で、最初のころは創作アカウントはそんなものなのよ。noteは創作アカ、とくに小説はなかなか読まれないのよ。いつか仮名子さんの輝きにみんな気がつくから大丈夫よ・・・」などと祖母気分で思っていた。
そんな仮名子さんが創作大賞に向けて放ったのがこちらの小説だ。
私はこの小説を、初稿から読んだ。
今はもう読めないのだけれど、初期のころのタイトルを略して「あのステ」などと略し、連載を楽しみにしていた。
仮名子さんが設定を変えたり、プロットを変えたり、試行錯誤していた頃、私自身もわたくしごとでバタバタしていたのでちょっと目を離していた隙に―――
バズってた。笑
ミーミーさんが絶賛していた。
ヤバい。初期ファンというのは常にこういう焦りを感じるものなのだろうか。あれ?どこかで「推し続けます」とコメントした気がするのだが、証拠に写メしておいたほうがよかったか?
戯言はさておき、『針を置いたらあの海へ』は、こういうお話である。
―――あなたはこの後、上と下に貼ったリンクをタップするか、クリックするに違いない。
では、この後は心置きなく、ネタバレさせていただく。
これから読む!というかたは、ここまでで。
私は感想文は、完全ネタバレ派である。失敬。
初稿でレオがフェアアイルについて語るシーンにガツンと衝撃を受けたので、改稿した時に無くなってしまったのが残念だったのだが、最終稿では復活していた。それが嬉しかった。
改稿した第2稿も面白かったけれど、やっぱりレオの最初の葛藤である「編み物」と「色彩に関する障害」はこの物語に外せない、と思っていたし、たっちゃんが「彫り師」なので、「針」で繋がることを考えると、その設定がいいなあ、と思っていた。
編み物の名手なのだが、決定的な弱点を持つ主人公という設定がとにかく秀逸だった。夢をみようにもみることができない、というのは重く、辛い彼の「傷」である。そんな傷をもって生きているのだから何をするにも「ダルい」のは当たり前で、その主人公にすっと感情移入できる。
相棒となるたっちゃんは、彼の性志向にまつわる大きな傷を抱えている。普段はそんなことを表に出さないし、レオも彼の心を開くまでには相当の苦心をしている。その葛藤の大きさに、感情を揺さぶられる。
そんなたっちゃんのことを「推し」と称する、レオの元同級生ルイさんの存在が私には「尊い」。ルイの存在による恋愛ではない「愛」が、レオとたっちゃんさんの関係を大きく進展させたのは間違いない。
ありきたりな物語だと、レオとルイ、や、ルイとたっちゃんさん、という「組み合わせ」になってしまいがちなところを、レオの傷とたっちゃんの傷と彼女の「おもしろ」への愛がそうはさせない。レオとルイ、レオとたっちゃんはそれぞれ一緒に作品を作り上げることによって繋がり、彼らは、人間は興味深く、かつ面白い、というすごく根本的なところで、それぞれの心を開いていくからだ。
関門海峡のトンネルと「鳥の心臓」は1点透視の消失点。消失点はいつも遠くにある。そこにたっちゃんの生涯の苦しみである過去の愛と傷をボールペンで「刺す」ことでそこに置いて、二人はやっと「ふたり」になれた。それまではずっと、三人だったのだと思う。
消失点、といえば、レオの性志向にまつわる傷、色彩へのコンプレックスなど、いくつかの重要な「消失点」があり、可視化できないその点によって、作品がより立体的になっているのではないか、と感じた。
そう言う意味でも、タトゥーや編地の柄が豊富に出てくることからも、この作品は非常に絵画的、ヴィジュアルに優れた作品だ。
仮名子さんの描写の確かさも忘れてはならない。加奈子さんの「ためらい」の心情にはいつも心をつかまれる。
シャボン玉に託したたっちゃんの告白や、花火を見ながらのレオの告白シーンの「ためらい」シーンにも緊張した。この、文章でためらいの緊張感を表すこと、手に汗を握らせるような心情を描くことは、とても難しいことだと思う。
また、人物の個性を、
こんな風に表してしまえる才能。
もうこれだけで、たっちゃんさんがどんな人かわかる。
おおらかなおばあちゃんとのやりとりもいい。レオの世界は編み物で繋がるおばあちゃんによって切り拓かれていくし、ルイと親交を深めるのもおばあちゃんと編み物繋がりだ。どこまでも「針」で縫い付けるように広がっていくのが面白い。
引用したいところはいくつもあるが、きりがないのでやめておく。
レオの心情にとことん寄り添う流れるような文章には、緩急があり、飽きさせることがない。心に残る言葉が目白押しだ。
間違いなく、この作品は力作である。私の中ではいつでも実写化・アニメ化OKである。って私に言われても、ではあるけれども。笑
ここまで書いて、まだいい足りないことが沢山あることに気づいた。
でも、言葉を尽くした小説に、さらに言葉を山盛りにすることはできないんだなと、改めて思っている。
読んでみて。
ということに尽きる。
追記:「あいこさん」もすごく良かったので、『針を置いたらあの海へ』を読んだかたはぜひ、『あいこさんの相続人』もぜひ読んでみて欲しい。
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