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創作大賞感想【北風のリュート/deko】

前半がネタバレ無し、後半がネタバレありになっています。
ネタバレタグをつけると、避けてしまう方もいらっしゃると思うので、先に断り書きをつけることにしました。よろしくお願いします。

 『北風のリュート』の第一話が投稿されたのは、5月20日のことである。
 そして先日、ついに最終話が投稿された。7月16日のことだ。

 5月、誰もが「おおっ、来たな。dekoさんの新作だ。どんな話なんだろう、楽しみだ!」と思ったに違いないその日からおよそ2カ月間。どれほどのnoteの仲間がほぼ毎朝の更新を楽しみにしていたいたことだろう。

 dekoさんは、noteで大河ファンタジーの超大作を連載中だ。

 エンデの『はてしない物語』や『指輪物語』『ナルニア物語』など古典的名作に匹敵する壮大な物語だ。地図の好きな方に作中の地図を制作してもらったり、年表を作っていただくべき「世界」が確立している。素晴らしい作品だ。

 他にもこちらのシリーズもファンが多い(私も大ファンだ)。

 昨年の創作大賞応募作品はこちら。

 なんと、刺繍もプロ級だ。橘鶫さんとのコラボは最強。

 dekoさんは、noteの中でのコメントの数もすごい。
 いつこんなに読んでいるんだろう、と思うくらい、多くの人の作品に目を留め、そして言葉を寄せてくれる。
 勇気をだして作品を投稿したはいいけれど、なかなか読んでもらえないな、という時にdekoさんからコメントをもらった人も多いのではないだろうか。他の方のnoteに寄せたコメントを通じて知り合った方もいるに違いない。私も、そうやってdekoさんと知り合った。

 今回の『北風のリュート』も、大作である。
 2か月。たった2か月の間に、リアルタイムでこれほど素晴らしいファンタジー小説を堪能できた我々は、幸せである。

 最初の一行は、こう始まる。

そこは世界の蝶番のような場所だった。

 もう、一発で連れていかれる。まるで『オズの魔法使い』のドロシーのように竜巻に巻き上げられて、一瞬にしてdekoワールドへと運ばれる。
 「蝶番のような場所」。
 あちらとこちらを繋ぐ場所。肝心かなめの場所。何かの始まりの場所。
 どうやらこれは「伝承」らしい。その先を読めば読む程、期待が高まってくる。「七の新月の夜に降る雪」「北風に乗ってやってくるもの」「龍人リュート」。どれもがファンタジーの色を纏って、物語の世界へいざなう。

 そしてプロローグに当たる第1話の伏線をすべて見事に回収し、美しく着地した体操選手の演技をみるような、ぴたり、と決まった最終回。
 読み終えて、ああ、いいものを「観た」!そう思った。

 観た―――そう、これは「アニメ」が相応しい、と思った。アニメの映画でも、連続アニメでもいい。実写映画でもいいけれど、やっぱりこの世界をじゅうぶんに描き出せるのはアニメがいいように思う。細田監督。新海監督。渡辺監督。この物語に気づいて!と、思っている。

 空を泳ぐ透明な魚たち。回を追うごとに不穏になっていく空。蠢く赤い空気。過去の伝承を未来につなげる人々の命がけの仕事。これらを、スクリーンで鑑賞するように、私は視た。聴いた。

 音が、実に効いている。

 ピーポー、ピーポー、ピーポー。
 サイレンの音が鳴りやまない。
 ガラガラガラ。
 ストレッチャーの車輪がせわしなく回転する。

 おそらくあえて、であろうト書きのような擬音や擬態語が差し込まれ、否が応でも臨場感が増す。

 そして登場人物。
 主人公の少女レイ。高校生で、リケジョ。少し近寄りがたいような美人で、ミステリアスな雰囲気を持つ。子供のころから空の魚を見ている。みんなが見えないと知り、嘘つきと言われてからそのことは決して人に言えない秘密となり、自分の心をひた隠すようにして生きている。
 立原じん。高校卒業後航空学生として入隊し、去年三尉に昇進しイーグルドライバーになった。二十五歳男性。
 気象研究官の天馬流斗。目を悪くしてパイロットを諦めてから、気象の道に進んだ二十九歳男性。

 彼ら三人の心は、いつも空にある。
 空が彼らを結び付け、そして彼らは導かれるように出会う。
 時は2030年。少しだけ未来のお話だ。

 あらすじは、dekoさんの第一話から。

2030年、G県鏡原市では原因不明の呼吸困難患者が激増し、医療は崩壊寸前に直面していた。謎のウイルスによるパンデミックの再来か――。
 幼いころから空を泳ぐ魚が見えていた女子高生の小羽田おわだレイは、他人から理解されない孤独を抱え空だけを見つめる日々を送っていた。一方、航空自衛隊パイロットの立原じんは、空のかすかな異変に気づく。気象研究官の天馬流斗は異常気象について調べていた。「空」を通じて運命が交差した三人。レイにしか鳴らすことのできない不思議なリュート。秘されてきた伝説の扉が現代に開く。これは、120日間世界を背負った三人の物語である。

 敬愛する荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる岸部露伴というキャラクターがいる。
 彼は言う。

ところで君たち
おもしろいマンガ』というものは
どうすれば描けるかしってるかね?

リアリティ』だよ!『リアリティ』こそが作品に生命を吹き込むエネルギーであり、『リアリティ』こそがエンターテイメントなのさ

『マンガ』とは想像や空想で描かれていると思われがちだが実は違う!自分の見たことや体験したこと、感動したことを描いてこそおもしろくなるんだ!

『ジョジョの奇妙な冒険』第四部「漫画家のうちへ遊びに行こう」より

 『岸部露伴は動かない』は、ここ何年か単発的に実写ドラマ化されている。高橋一生と飯豊まりえはこのドラマで結婚した。(↽どうでもいい情報)。

 このセリフはドラマの中でも採用されていて、作者の荒木飛呂彦先生の考えが反映されているセリフだと言われている。

 dekoさんの小説を読みながら、私はずっとこの言葉を思い出していた。
 リュウグウノツカイのような、太刀魚のような空の魚たち。迅の操るイーグルとそのコクピット。美しい銀のリュート。気象学会で議論している鏡原の状況。「鏡原クライシス」となった時の世界の動き。
 すべてがリアリティある描写で描かれている。眼前に映像をみるようにありありと浮かびあがり、次第に、登場人物の声優さんは誰が合うだろう、などと考え始める。

 さあ。この時点で「長いから」と躊躇しているあなたも、読みたくてたまらなくなっているはずだ。
 ぜひ、最初から読んでみて欲しい。
 「現代のファンタジー」、ここに到来である。


 ここからは、思いっきりネタバレをさせていただく所存なので、いまから読みに走るぞ!という方も、まだ途中!の方も、ここまでで。



 この物語が始まって完結するまでの間に、実は、私はdekoさんご本人にお会いしている。

 その時、dekoさんから創作秘話を伺う、という超贅沢な体験をしている。
 創作スタイルの話になったとき、dekoさんは「細かいプロットは決めない。最初と最後だけ決まっている。全部決めないで走り出し、走りながら考えていく創作スタイルだ」とおっしゃっていた。
 そこにいた全員が、ええっ、あれだけの長編大作を、プロットを決めないで書きだすのですか?と驚いたものだ。

 こうした「世界観」が確固とした作品、しかもファンタジー作品を、細部にリアリティを持たせて破綻なく帰着させるには、並々ならぬ集中力と緻密な調査が必要だ。それを短期間で、しかも途中のプロットは書きながら作っていくスタイルでやってのける―――dekoさんの底知れない力量の一端を垣間見たような気がした。

 決定しているラストに向かって、決めかねているいくつかの出来事がある、とおっしゃっていたので、その時我々は、素直な感想と共にああでもない、こうでもないと雑音をたてたのだが、その時のdekoさんはじっと考え込んでいらっしゃったのが印象的だった。
 その後「難産です!」というメールをいただいたりもしたので、内心、ドキドキしながら応援していた。

 先日のラストを読んで「ああ、dekoさんは「この道」を選んだのだな、と思い、それはわたしたち(創作仲間と言うよりは完全に読者)が願った形でもあったので、何重もの意味で嬉しくなったのだった。

 その時の経緯を含め、創作に様々なシンクロ現象や偶然の一致があったことを、dekoさんご自身があとがきで書かれている。

 そんな形でかかわった作品でもあったので、この『北風のリュート』に対する私の思い入れもひとしおである。

 長編なので、あちこちに手を付けると散漫な感想文になってしまうが、私の最も好きな場面は、レイと迅と流斗が三人で会い、レイしか鳴らせないリュートを見ているシーンだ。

 レイが、空を泳ぐ魚を否定しない人たちに、初めて会う場面。そして、迅と流斗が、レイがレイにしかできない何かを持つ「運命の少女」であることを漠然と感知する場面。

 三人には、三人にしかできない「役割」がある。
 運命としか言えない力で集められた三人は、全員が「リュート」に関係している。伝説の楽器を奏で謎を解くカギとなる「北風の龍人」の子孫(生まれ変わりということも考えられる)であるレイ。リュートの名前をもち観察と研究の結果状況を見極め、障害を打開して行動する流斗。
 そして最終回で迅もまた「南風の龍人」の子孫だったことが明かされる。「南風の龍人スサ」は勇敢な武人だった。彼は有能な航空機パイロットとして空の異常を観察、客観的研究レベルに落とし込み、流斗とレイの仕事に貢献する。

 その三人が集まって、楽器のリュートを囲むシーン。ここで流斗は初めてレイを「レインボー」と呼ぶ。ラストシーンにかかる虹を予感させる名前がつくシーン。一度最後まで読んでから読むと、震えるシーンだ。
 ちなみに流斗はその後、迅のことも「タッチ―」と呼んでいる。彼は学者気質というよりは明朗快活で抜群の行動力がある人物で、それが物語をぐんぐん動かしていく。

 最初に空の異変に気が付いたのは、生まれつき空の魚が見えるレイだ。それが迅の証言によって裏付けられ「絵空事」ではなく「現実」になる。
 呼吸器に障害が生じた患者が増え始め、最初はそれがコロナのような感染症ではないかと疑われて、パニックになりかける。それが感染症ではなく、「空の赤潮」という「気象現象」だとわかり、原因を突き止めるまでが前半部、住民をいかに犠牲なく避難させ、原因を駆逐するか、という問題が後半部に描かれている。

 ここ何年か、世界中で異常気象が恒常化しはじめている。鏡原のようなことがあっても全くおかしくない、と思う。リアリティがある。
 そしてコロナ禍。あの災厄は、人々や社会を様々な意味で変えた。何かがあった時に、まず「感染症ではない」と証明する必要性が生まれたように思う。もしコロナ禍がなかったら、世間の、社会の、政府の反応はもっと鈍かったかもしれない。しかし逆に言えば、最初は「感染症」というミスリードに足を取られてしまった感もある。
 このあたりをうまく活かしきっていた、と思う。リアリティだ。

 感染症の世界では「一定の期間内に、特定の地域、特定の人間集団の中で予想より多く感染症が発生すること」「本来あってはならない感染症が発生すること」をアウトブレイク、という。
 「エンデミック」は地域や季節的周期で罹患率が一定している状態、「エピデミックはエンデミックの範囲を超えてしまった状態、「パンデミック」は、国を超えた大流行を指す。

 今回は、流斗とレイによって「気象現象」「異常気象」だということがわかったのだが、鏡原だけであれば「アウトブレイク」に似た状況でも、次第に鏡原以外にも広がりつつあり、「エピデミック」「パンデミック」にもなりうる状況だった。

 「空の赤潮」「気象現象」。
 いちど話を聞いただけでは、「なんのはなしですか」である。

 これを市や県、国、そして人々に納得させるための流斗の奔走が素晴らしい。いや、流斗の奔走を描くdekoさんの筆致が素晴らしい。ひとつひとつ、「これなら誰もが納得できる」事実を積み重ねていく。簡単に「国に言いました。そうしたら国が動きました」と言う話ではない。
 なんというリアリティ!

 結果として、地域や国が震撼し、対策に乗り出して「現実の世界」でその「空の赤潮」「赤い瘡蓋」を一掃することに成功したかに見える。

 ところが、その一方で、これが太古の昔から繰り返されてきたことであり、想像上のものと思われている「龍」が姿を現し、地球の地形や現象に影響を与えている物語が語られる。オームの上を歩く「青き衣の」ナウシカのように、レイは龍の背に乗る。こんなに興奮することがあるだろうか、いやない。

 読者には、こちらの物語が「真実」であるが、避難している住民や市長、自衛隊、国、メディアの向こうの人々にとっては「メタ」である、という面白さ。

 私たちが見えている世界と、視えない世界の間に、レイはいる。
 レイは時を超えた霊であり巫女であり、精霊スピリットである。
 そのレイの言葉を、現実にトランスレートして、還元してみせるのが気象研究者である流斗だ。流斗が翻訳したレイの言葉を理解し、それを具現して実際に行動できる航空パイロットがいて、初めて「現実」に穴をあけることができた。レイが伝説の謎を解いただけで良かったじゃないか、とはならないところが、良いと思う。

 ちなみに大ヒットアニメ『君の名は。』は、ダブル主人公三葉と瀧が入れ替わって、糸守町の隕石落下を防ぐ話だった。あの話では「(未来からの情報で)糸守に隕石が落ちるから住民を避難させて」という娘の「説得」に町長がなぜかGOサインを出し、避難訓練と言う名目で住民を避難させ、糸守の住民を救っていた。
 しかしアニメを一度見ただけでは、どうして町長が「なんのはなしですか」とも思わず避難を推進したのかがいまいちわからない。こちらの話も、「現実」の裏に「メタ」があり、民俗学者だった町長は、宮水家に伝わる「伝承」を知っていたという推測ができるそうで、それがゆえにミツハの父は避難を進めたのだと思うが、そこは「鑑賞者の想像」にゆだねられていてはっきりとは描かれていない。

 この『北風のリュート』では、「伝説・伝承」と「現実」のバランスを絶妙に描き、破綻がない。そこがすごい、と思う。魔法の力や不思議な力に頼るだけの物語ではないのだ。「なんのはなしですか」を許さない理屈が積み上げられていく様子は圧巻である。

 主人公レイは、幼いころから人が見えないものを見てきたために、理解者がいないことに苦しみ、自分の内側にこもって人に心を開けなかった。将来に対しても明るい展望が持てず、夢をもつこともなかった。
 そんなレイが、この出来事を通して、流斗のような気象研究者になりたい、という夢を持つ。

 主人公が少女だということは、現実的な力がない、ということだ。
 世界を揺るがす大変な事件を知ったとしても、それを自分の力でどうすることもできないどころか、誰にどう伝えればいいのかもわからない。
 彼女がいなければ、空の赤潮は消えることがないにも関わらず、実際に生きている「この世界」を変えられないもどかしさ、ジレンマ。それが、流斗や迅の尽力によって、現実に作用する力を得る。

 その体験が、レイを変える。
 物語が進むにつれ、レイは自分で自分を否定することをやめ、外に働きかけ、変わっていく。
 「空の魚が見える」自分だからこそ、この世に作用する、現実の力が必要だ。
 そう、彼女が感じていく様子が、小説にはつぶさに描かれていく。

 この物語は、ふわふわで甘いだけのファンタジーではない。
 ちょっとビターな、辛口ファンタジーである。

 まだまだ語りつくせないが、空に始まり空に終わる素晴らしい超大作を、沢山の人と分かち合いたい、と思っている。




 dekoさん、執筆お疲れさまでした。
 素晴らしい作品を読ませていただき、ありがとうございます。