【創作大賞2024】眠る女 7
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7
看護師の鈴木が起しても、葵は起きることができなかった。
「私とカオルがモニタで見ていた時にも、トライしてました。あの看護師さん、一生懸命でしたよ。ある程度定期的に、起こしてたみたい」
優花里が、そう教えてくれた。
葵は、彼女の気持ちに応えられなかったことを悔やんだ。
窓から、不思議な色合いの光がさしていた。とても久しぶりの自然光だった。病室にも窓はあるのだが、変な時間に寝たり起きたりしているので、こうして別の場所で日差しを浴びるとひどく新鮮に感じる。看護師に車いすで面会室まで送ってもらい、まるで生まれて初めて日の光を見た感動にも似た思いを抱きながら、目を細めた。
面会室で、優佳里と対面していた。
リアルで会うのは、初めてだ。
日中に起きていられるようになってきて、ようやく面会が叶った。
少しずつ寝ている時間が短くなるにつれ、身体の状態はずいぶん改善した。起きている時間が長くなると、筋力をつけるためのリハビリが始まり、面会も許されるようになった。本当は身内以外はいけないのだが、身寄りのない葵への特例で、1日1人、15分だけ面会室で人と会うことが許された。その初めての面会人が、優花里だった。
実はまだ、誰かが起こしてくれた時に起きたり、自分で何時に起きようと思って起きる、というようなことはできていない。いったん寝てしまうと、いつ起きるかはわからない。ただ、入眠と覚醒の間隔は24時間から36時間の間に落ち着いていた。3日以上寝るようなことはもうない。
「看護師さんから、自分が悪いと思わないで下さいと伝えて、と言われてるの。またチャレンジするから、あきらめないから、だから起きられない自分を責めたり悔やんだりしないで、って。シャイだから直接言えないんですって。———あの人、鈴木さん、いい人ですね」
優花里は、想像していたより背の高い女性だった。
面会室に入ってきた時、すぐに妊娠しているのだと分かった。柔らかで伸縮性のあるモカ色のワンピースを着た優花里の左手が、下腹のあたりを一瞬、そっと押さえたからだ。まださほど目立たなかったが、それでも腹部がふっくらしているのはすぐにわかった。
「赤ちゃん……?」
彼女は肯いた。セミロングの髪を後ろで柔らかくまとめ、顔周りの髪にはゆるくウエイブがかかっている。その様子は、ミュシャの絵のようだった。
「日本で産むんですか?」
曖昧に、彼女は頷いた。なんとなくその話題には触れてほしくなさそうだったので、
「あまり、目立ちませんね」
と、言ってみた。
優花里は照れたように笑った。
「びっくりしたでしょう、私がいて。私もびっくりした。カオルに頼まれごとをしたのは、初めて。仕事が終わってからは、カオル、あなたにつきっきり」
そう言って、彼女は微笑んだ。
あなたもいい人だね、と葵は思う。
「昔から、カオルはあの通り、女性関係にはだらしないでしょう。だけど、葵さんのことだけは学生のころからよく聞いていたの。違う人と結婚したときには、嘘でしょと思ったけど、あなたの方が先に結婚してたと聞いて、納得した。結局あんなことになって、人騒がせだよね。まあ、私もカオルのことは言えないけど―――あ、そうそう。スマホ」
そう言って、彼女はいまは懐かしくすらあるスマホと充電器を葵に手渡した。
「会社のほうはどうした?」
優花里の訊ね方は本当のお姉さんのように気さくだったが、嫌ではなかった。むしろなにかくすぐったいような、不思議な気持ちになった。
「一応、私が連絡ができる状況じゃないということを簡単に病院から連絡してもらってて、私の状況がわかるまで保留、ということになってるみたいです」
まあそうでしょうね、というふうに、優花里は頷いた。
「スマホ、ずっと料金払ってないし、支払が滞ってるとか、いっぱい通知が来てると思うんだけど。あ、でも考えてみたらネットに繋がらないと手続きもできませんね」
受け取ったスマホを弄びながら、自分の口調も、優花里につられたように打ち解けていた。
「何か郵便物で来てるかもしれないから、今度まとめて持ってきますね。もし、あなたさえよければ、貴重品も持ってくるけど―――ああ、大丈夫。ちゃんと、弁護士さんと一緒に行くから、心配しなくても、大丈夫」
「弁護士?」
葵は、ぼんやり、その言葉を口にした。
「信用できる第三者、というのが、必要でしょ?わたしたちも、あなたと血縁があるわけではないので、ご親戚があれば、連絡を取りたいと思ってるの。でもそれまでの間、わたしたちがいろんなことを代行しなくてはいけなかったから、夫の知り合いに頼んで弁護士を紹介してもらったの」
さすが、アメリカに行ってた人は違うな、と思った。そしてなにか急に、さっきまでの距離感を、つかめなくなった。
「そうですか。なにもかもすみません。いろいろお任せします。でも放っておいてくれてもいいです。他人の私にそんなに親切にする義理なんてないですし、まあ、こうなっちゃうともう、どうでもいい、っていうか」
葵は少し投げやりに言った。
優花里の表情が、少しきつくなった。
「ねえ。そんな風に言わないで。全部、どうでもいいことじゃないでしょう?」
優花里の目には涙が浮かんでいた。その突然の彼女の感情の高ぶにびっくりしてしまい、言葉が出てこない。
「ごめん。ごめんなさい。わたし―――少しどうかしてる」
優花里はそれでもゆっくりと立ちあがり、ごめんなさい、今日は帰った方がいいみたい、と言って病室を出ていった。
葵はぼんやりと、彼女が出て行ったほうに視線を投げていた。
急に感情的になったのは、お腹の子供のせいかもしれない。葵には、妊娠すると言うことがどういうことなのかわからない。
窓の外を見た。ビルばかりだが、晴れて、きれいな青が広がっている。
山でも見えればいいのに、と思って、ふと、長野のことを思った。長野はどんなところなんだろう。スキー場やりんごしか思い浮かばないが、山々の峰が連なる、美しいところなのだろうか。
時生の行方はまだわからない。
カオルに告げられた事実を何度も反芻するうち、時生は長野にいるのではないか、と想像するようになっていた。
だけど、居場所がわかったところで、きっと彼はもう、戻ってこないだろうと思う。
なにかそれは、確信めいた気持ちだった。
葵に嘘をついていたその理由が何であれ、葵との結婚は、一種の「ごっこあそび」のようなものだったのではないか―――
時生とつきあいはじめてから葵は変なお酒の飲み方はしなくなったけれど、彼が夢のように消えるまでのその間、肉体的にも精神的にも、良い状態とはいえなかった。途中から記憶が定かではないのだ。眠れなくなって精神科の薬も飲み始めていた。時生と暮らしていたのが、1週間だったのか、1ヵ月だったのか、数カ月だったのか、なにか記憶がぐらぐらしていて確たる信頼がおけない。
自分がどこから「病」だったのかがわからない……
そのとき、優花里ではなく鈴木が部屋に入ってきて、まっすぐに葵に向かって歩いてきた。
「ナースセンターに、柏木さんが見えられて。お姉さんのほうですが。謝ってました」
相変わらず淡々と、彼女は言った。
「謝るのは、私のほうなんだけど……」
葵は小さく呟いた。
鈴木は、黙っていた。
「柏木カオルに伝言渡してくれてありがとう」
思い出して言うと、それにも、彼女は黙って頷くだけだった。
「彼のこと、ナースセンターではどんな話になってるの?」
彼女が相手では、何もわからないだろうとは思ったが、聞いてみた。
「患者さんのプライバシーのことは、看護師同士でそんなに話しません。ドラマみたいにお喋りしてる時間、ないんですよ」
鈴木は言った。
「そうなんですか?」
「気になりますか?」
葵は頷いた。
「患者さんには、いろんな事情の方がいらっしゃいますから。そんなに気にされないほうがいいと思います」
鈴木は言った。
「じゃあ、あなたから見て、彼は私の何に見えます?」
鈴木は器用なほうではなさそうなので、追求すれば意地悪になるのかもしれないと思ったが、聞きたかった。葵は今、それが知りたいのだ。カオルが、自分にとって何なのか。昔も、今も、ずっとわからない。
「すみません。私には、わかりません」
そっけなく鈴木は言い、話題を変えた。
「今日、有野先生の方からきちんとお話があると思いますが、明日、内科から病棟を移ることになりました。事前にお話しておいて欲しいと、有野先生からの伝言です」
「精神科?」
「脳神経外科です」
「脳の異常なの?」
「検査入院です」
端的に答え、彼女は立ちあがった。もう、伝言も伝えたし、という様子だった。
「では、また後ほど」
それでも鈴木は、最後に微笑んだ。それはとても魅力的な笑顔だった。そして少しぎこちなく、こう言った。
「浮島さん、ずいぶん顔色、良くなりましたね」
それを聞いた瞬間、なぜか突然、涙が込み上げた。
止められなかった。葵は泣いた。しゃくりあげて泣いた。鈴木は、面会室に置いてあったティッシュを箱ごと差し出した。突然の号泣に、いくら彼女でも驚いたらしかった。
「浮島さん……」
珍しく幾分おろおろした鈴木の声を聞きながら、葵は泣いた。
自分は生きている、と思った。生きようとしている。泣くほどの元気が、自分の中に生まれていた。
いつのまにか。
いつのまにか。
「眠る女 8」に続く
眠る女
目次【全10話】
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話
創作大賞というお祭りの片隅で、サンバを踊っています。