自己とだけ対座する様になればもう終わりである
6月9日火曜日
今日も朝から30分坐禅をし、昼は仕事がなかったが、ある翻訳会社から書き起こしの仕事をしないかと言われたので、その契約書を読んでサインしたりしていた。
その契約書には電子サインが必要だったのだが、IT音痴の俺にはどうやって電子サインすることができるのかわからず、結局電子サインをするためだけに2時間も費やした。
一体、こんな複雑な世の中にしたのは誰なんだ?
まあ、そんなことはどうでもよい。
昨日何気なしに、自分のKindleに入っているオルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」が目に入ったので、少し読んでみた。
すると、こんな文章が目に入ってきた
近年、献身すべき対象を持たぬために、無数の生が自らの迷宮の中に迷い込み消えていくという恐るべき光景を目撃してきた。あらゆる掟、あらゆる秩序が宙に浮いてしまったのだ。こうした状態は理想であるはずのように思えた。なぜならば、各人の生は自分が好きなことを行う完全な自由と自分自身に熱中する完全な自由を得たからである。
私は最近、仕事が減ってやたらと考える時間が増えた。 そして、常にこれからどうやって生きていこうかとよく考えるようになった。 だが、全然答えが見えてこないのだ。
オルテガは更に言う。
生は、自己とだけ対座する様になればもう終わりである。 エゴイズムはいわば迷路なのだ。自らを閉じ込めてしまう迷路なのである。生きるとは、何かに向かって放たれていること、一つの目標に向かって歩くことだ。(中略)もし私が、一人で私の生の中をエゴイスティックに独歩する決心をしたとすれば、私は前進しないし、どこへも到達しない。私は同じところを堂々巡りする。これが迷路であり、どこにも通じていない道、自己自身の中を歩き回るに過ぎないので、自己の中で迷い込んでしまう道なのである。
この文章を読んだとき、はっとした。 答えを見つけだせないのも当然なのだ。なぜなら私は、結局は「自己とだけ対座」しているからである。
つまり「エゴイズムの迷路」に迷い込んでいるのだ。
自由を究極の目標としてしまいがちな現代人は、個人の快楽や心地良さばかり追求するために、高邁な理想に邁進するということが無い。
現代人が何ものにも満たされず、右往左往し、宙に浮いており、あまり幸福そうではないのは、結局エゴイズムの迷路に迷い込んでいるからではないのか。
私が最近、生きることの空虚さを感じるのは、つまり個人の自由を追求することにより人生を良くしようという独りよがりからきていたのではないかと、気が付いた。
オルテガ先生は更に言う
生きると言うことは何か特定のことをなさなければならないということー一つの任務(エンカルゴ)を果たすことーであり、我々がその生を何かに賭けることを避ける度合いに比例して、我々は自己の生を空虚にしてゆくのである。
自分のことばかり追求しても、結局人間は社会的な動物であるがゆえに、それだけでは満たされることは永遠とないのであろう。
私も、自由絶対主義に毒されていたのだ。
たまたま無意識的にこの本を開いたのは、天啓であったと言うほかはないだろう。