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自分らしく生きるためのセルフコミュニケーション分析と改善のヒント#11「たまたま(偶然)そうなった」という観念をインストールする
これまでの人生、周りに振り回されてばかりの「他人軸」のしんどい毎日を送っていたとしても、心の中の自己対話(セルフコミュニケーション)を見直すことで自分軸に軌道修正できるということをコンセプトに、シリーズでお届けする記事の11回目です。
人生がしんどい状態で悩んでいるかたから色々な相談を受けて思うのは、抱えた悩みについて因果関係を見出そうとして誤った因果関係を設定してしまったせいで、自作自演でトラブルを大きくしているケースって実は少なくないなということ。
相関関係くらいはあるかもですが、「原因と結果」のような明確な因果関係はなくて「たまたま」そうなっただけ。
なのに、そこに因果関係を求め、ある意味、理由を「創造」してしまった結果、現実がどんどん悩ましい方向に向かってしまう……。
今回の記事では「たまたま(偶然)そうなっただけ」という観念をインストールするセルフコミュニケーションのヒントについてお話しします。
ウェルビーイングな生き方をする上で、意外と大切なことかなと思ってますので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
意図せず娘を追い詰めてしまった誤った因果律
あるケースを紹介します。仮にAさんとします。
Aさんには高校2年生の娘さん(Bさん)がいて、娘さんにはお付き合いしてる彼氏(高校の時の先輩で大学生)がいます。
あるとき、突然の家庭の事情でBさんの彼氏は大学の学費が払えなくなり、大学を辞めて働くことを余儀なくされます。
その話を彼から聞かされたBさんは「私も働いて彼氏を支えたい」と思い、高校を辞めることをAさんに告げます。
突然の退学宣言に、AさんもAさんの夫も猛反対し、さらには彼氏との交際についてもNGを出します。
以来、親子関係が悪化しとうとう先月からBさんは高校に通うことをボイコットし部屋に引きこもります。
Aさんのご家族に限らず、私たちが人生でトラブルや問題を抱えたとき、そこにはまって抜け出せないばかりか、トラブルにさらに油を注いで炎上させてしまうときの心理状態に共通するものとして
・トラブルには必ず因果関係となる原因があるという思い込み。
・その原因を自分はわかっている(自分も関与している)という思い込み。
・全部自分でなんとかしなければならないという思い込み。
・自分のとるべき選択肢はこれしか残されていないという思い込み。
といった強い思い込みがあります。
こうした思い込みは抱えたトラブルを鎮火するどころか、むしろ火に油を注いでしまうものと言えるのですが、特に気をつける必要があるのは
「トラブルには必ず因果関係となっている原因があるという思い込み」
だと感じています。
悩み・問題には必ず因果関係があるという思い込み
どうやらわたしたちは何事にもなんらかの因果関係を見つけないと不安で気が済まない生き物みたいです^^
事実、「縁」「宿命」「命運」「天運」「運命」「天命」「因果」「カルマ」など、本当は「たまたま(単なる偶然)」かもしれないことになんらかの意味づけをするような言葉を先人たちもたくさん生み出してますからね。
ですが、色々なお悩み相談を受けて思うのは、必ずしも因果関係があるものばかりとは限らないということ(相関関係はあるかもですが)。
なのに、そこになんらかの因果関係を見出そうと躍起になって誤った因果関係を見出しているせいで、自作自演でトラブルを大きくしていることに無自覚でいるケースって実は少なくないんです汗
先ほど紹介したケースで言えば、Aさん夫婦は娘のBさんの引きこもりの原因を「絶対に彼氏にそそのかされたせいだ」という因果関係で結論つけてました(他にも元々高圧的な父親との関係なんかも結びつけてましたが)。
でも、実際はどうなのかというと、彼氏はBさんに「高校は絶対に卒業したほうがいいし、なんなら大学にも行ったほうがいい」と最初からかなり強く言っているんです。
でも、「原因は彼氏のせい」という思い込みに囚われているせいで、交際を禁止さえすれば問題が解決すると思い込んでいる……。
たまたま(偶然)という因果律
今回のケースについて、因果関係を外して考えてみると……
(たまたま)彼氏の家庭でトラブルが起きて、(たまたま)彼氏の親は学費が払えなくなって、(たまたま)結果として大学を辞めることになった。
そうなったときに付き合っていた彼女が(たまたま)Bさんだった。
Bさんも(たまたま)まだ社会的・精神的に未熟な年齢で、(たまたま)彼氏に一番熱をあげている時に、(たまたま)彼氏から大学を辞める話を聞いて、(たまたま)反射的に自分も高校を辞めて仕事すると決めた。
そうしたら、(たまたま)親から交際を禁止されて、それによって(たまたま)余計に熱い思いが強くなって学校をボイコットするなど暴走しているみたいな……。
実際、Bさんとお話ししましたが、ちゃんと落ち着いて話してみれば、自分のやろうとしていることが将来どんな形で自分に跳ね返ってくるのかくらいしっかり考えているんです。
(たまたま)勢いで「高校を辞める)と口に出した結果、周りが大騒ぎしてしまい、(たまたま)後に引けなくなってしまっただけだったんです。
このように「たまたま(偶然)そうなってしまっただけ」という考えを最初から除外し、どこかに問題を生み出した原因が絶対にあるはずと追求し、誤った原因を設定してしまうと、本来ややこしくない話だったとしてもどんどんややこしい方向に向かって行きがちです。
生まれてきたのはたまたま? 必然?
私たちが生まれてくる確率は、気が遠くなるほどの確率です。
生まれてくる確率を求めるには、単純に精子と卵子の受精の確率だけではなく、親はもちろん、親の親、その親の親…… と、どこまでも遡る必要があります。
だってご先祖様の誰か一人が欠けただけで、「私」という存在は無くなりますからね^^
そうやってどんどん遡っていくと、我々ホモ・サピエンスの前にはホモ・ハビリスという種族がいて(約200万年前)、その前にはアウストラロピテクスがいて(約300万年前)……
さらには哺乳類に分岐する前の爬虫類まで遡って…….
そうやって最初の生命の起源、つまりバクテリアまで遡れば約35億年前と、気が遠くなるような時間の流れの中で今の親につながる誰かが生き残って、かつ、その二人が出会った結果、今の「私」が生まれたわけです。
その間、とんでもない環境の変化もあれば、病気や事故、繰り返される戦争など、いつ死んでもおかしくない色々なイベントがあったはずです。
これって「たまたま(偶然)」以外にどう考えればいいのかまるで見当がつきません。
もちろんそれっぽい因果関係を見つけることはできます。
ですが、突き詰めていくと結局は「たまたま(偶然)」としか言いようがないところに行き着くはずなんです。
いま住んでいる街も「たまたま」だった
たとえば僕はいま(たまたま)宮城県仙台市に住居を構えています。
これまで福島県(郡山市・白河市・いわき市)、山形県(山形市)、東京(北区赤羽根)にも住んでいたし、もしも10数年前に勤めていた会社にそのまま在籍していたら、大阪と福岡に異動することも予定されてました。
なので仙台以外に居住地を構えることだって全然普通にあったわけです。
もちろん仙台市に住むに至るまでには家族で話し合いました^^
たとえば、
・自分と妻、お互いの実家にアクセスしやすい
・山にも海にも街にもアクセスしやすい
・適度に都会で適度に田舎で騒がしすぎない
・子どもの将来の選択肢に環境面から制限をかける要因が少ない
・インフラ的な不便が特にない
……などなど。
でも、これらの理由は本質的な原因でありません。
というのも、
「どうしてお互いの実家に近くなきゃいけないのか?」
「どうして自然にアクセスしやすくないとダメなの?」
「どうして適度に都会で適度に田舎で騒がしすぎないのがいいの?」
などと、一つひとつの要素をどんどん掘り下げていくと、最終的には「好き嫌い」「なんとなく」といったとても曖昧で論理的ではない話……
つまり「たまたまこうなった」という話になるんです^^
とはいえ僕の個人的な話だけでは微妙な感じなので、次に「たまたま(偶然)」という因果関係を親子関係に当てはめて考えてみたいと思います。
ただなにぶんセンシティブな話ですから不快に感じる方がいるかもしれません。その点をあらかじめご了承いただき、それを踏まえて興味のある方は先を読んでみてください。
「親ガチャ」は、たまたまの因果律
子どもは親を選べないということを、おもちゃのガチャガチャに例え「親ガチャ」と呼んだりします。「ガチャ」ですから、まさに「たまたま」を表しているわけですが、そもそもこの世界に「人権」という概念が生まれたのは18世紀で、ほんの300年前の話です。
そして人権の概念が社会に浸透するのはそのずっとずっと先のことで、世界人権宣言なんて第二次対戦後の話です(それもあくまで宣言であって法的拘束力は何もありませんが……)。
そこからさらに先の1970年代になってやっと「女子差別撤廃条約」、1990年代になって「子どもの権利条約」が国連で採択され、日本がこの条約に批准したのはごく最近の1994年です。(その流れで2000年になってから児童ポルノ禁止などもニュースになりましたね)
それくらい子どもや女子に対する人権って、世界に、そして日本に浸透するのに時間がかっかっているわけで、それが個々人に浸透するまでにはどれくらいのタイムラグがあることやら……。
つまり、人権という概念を当然のように認識している若い世代からしてみたら、人権意識の薄い親世代のことを「親ガチャ」と蔑称的に呼びたくなるのも当然と言えば当然なわけで……。
そもそも完璧な親なんていません。同じように完璧な家族もありません。
人には「好き嫌い」「相性」といった理性ではコントロールが難しい感情もあります。そのためどんなに子どもを愛そうと思っても、どうしても好きになれない親だっているでしょう。親からしてみたら本当は「子ガチャ」と言いたい親だって少なくない数がいるはずです(道徳的にこういう言葉は浸透はしないでしょうし、発言自体難しいでしょうけど)。また、仕事が忙しすぎて子どもに向き合えないなど、「親ガチャ」と呼ばれる親にだってきっとなんらかの言い分があるはずです。
つまりここで言いたいのは、親子関係にしても家族関係にしても、そもそもうまくいかないことの方が自然で、うまくいったら「たまたまラッキー」くらいの話なんじゃないでしょうかってことです。
実際、親や家族のおかげで救われる人、幸せになる人もいますが、親や家族から離れた方が救われる人、幸せになれる人だっています。離れた方がいい家族なら、とっとと離れるという選択をした方がいいでしょうし、そうじゃなくて一緒にいたいと思うなら悶々としていないで真正面から向き合った方がいいと僕は思っています。
そもそも「たまたま」家族になっているだけなのですが、「たまたま」を受け入れず、親や家族に対して完璧な理想を求め、その理想を絶対的な基準に設定してしまうなどすると、途端に問題が生じることになります。
「たまたま(偶然)」を受け入れる5つのステップ
なんらかのトラブルや問題を抱えたとき、「たまたま」を使って現状を受け入れるプロセスを分解すると、
1、「たまたま起きた」と現状を受け入れる(自己受容)
2、これから自分はどうしたいかを考える(ゴール設定)
3、ゴールに向けて自分にできることは何かを考える(アクションプランの検討)
4、考えたことを実行に移す(アクション開始)
5、適宜改善してゴールに近づける
という5つのシンプルなステップになります。
誤解のないようにしたいのですが、「電池が切れたから時計が止まった」「コンセントが抜けていたからテレビがつかなかった」など、なにかしらトラブルが発生したとき、そのトラブルを生み出しているはっきりした原因があるものもたくさんあります。
そういう話と今回の記事の話は混同しないようにしていただきたいと思うのですが、では、抱えたトラブルや問題が「たまたま」なのか、それともそうじゃないのかをどうやって判別すればいいのでしょうか?
これは経験値がかなりものを言う領域かとは思うのですが、判別するポイントを一つ挙げるとしたら、「自分一人で完結できる問題か否か?」に尽きるかなと僕は思っています。
言い換えるなら自分一人で最初から最後までコントロールできるものか否かです。
ということで、トラブルや心配事、不安なことなど自分にとってネガティブに感じる悩みを抱えたとき、こうしたちっぽけな違いが、最終的には人生の質にまで大きく影響するというお話でした。
いまあなたが抱えている問題にも、「たまたまなんだ」と考え先ほどのステップを粛々と進めてみると、これまでとは違った現実を生み出せるかもしれません^^
最後までお読みいただきありがとうございました。
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