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投稿で「誰かを救いたい」とは思わないんだが

noteに限った話ではありませんが、情報発信している人の中には、「私の発信で少しでも救われる人がいたらいい」みたいなことを言っているのを見たことがあります。
たまに見かけないでしょうか?

皮肉でも何でもなく、そういう姿勢で情報発信に取り組まれているのは、素晴らしいことだと思います。

おそらく、自身が過去につらい思いをしてきた人に多い気がします。

体験談や、乗り越えてきた過去を発信することで、「誰かの救いになればいいな」という心情で発信されているのでしょうね。

ふと自分の投稿を考えてみると、「誰か人の救いになればいい」という動機は、あんまりないなぁ・・と気付きました😓

今日はそのへんのことを考察してみます。

だが、たまに感謝?される

「誰かを救いたい」などという気持ちで書いているわけではないのですが、たまーに、お礼っぽいコメントをいただくことはあります。

1つのパターンは、休職・退職関連や生き方などのネタで、私見や体験談を書いた時ですかね。

「気付きをもらえた」とか「少し気が軽くなった」のような感想をいただくことがあると、「ああ、そうなんだ」と書いて良かったなと思います。

こちらこそ「ありがとうございます」です。
結果的に、ほんの少しでも誰かのお役に立てれば喜びです。

別パターンとして、画像生成AIで「ウケた・笑えた」コメントの際に、「ありがとうございます」と言われて「おおっ?」ってなることがあります。
こちらこそ「ありがとうございます」です。
見ていただいて、コメントまでくださる方々には感謝です。

あ、でもこれは「誰かの救いになる」というのではないですね。
余談でした。


ただ、タイトルの通り、最初から「誰かの救いになれば」という気持ちで投稿することは、あまりないんですよね。

何なんでしょうね。

おそらくですが、私は自分と他人の境界線が、ある程度はっきりしているタイプなのだと思います。

なので、例えば人の記事を読んだり、つらい体験談などを聞いて、「共感して涙が出る」などということがありません。
感情移入しにくい性格と言えるのかな。

「人は人、自分は自分」っていう意識が強いから、他人に対して「こうなってほしい」とか「こうすればいいのに」のような希望的な視点が少ないってことだろうと分析しています。どうだろうか。

「あなたはあなたで頑張ってください。
 私は私でどうにかします」

みたいなイメージでしょうか。

結果的に、少しでも誰かのお役に立てればとても嬉しいのは確かです。

ただ、目的として、誰かのお役に立てれば(救いになれば)というのがあまりなくて、考えを書く、書きたいことを書く、というだけという話。

「救い」をもう少し広げて、「誰かの役に立ちたい」を目的にした投稿も、さほど多くはありません。少しは頭の片隅に置いていますけど。

「誰かの役に立つ記事を書かねば!」という縛りを持つと、投稿がしんどくなると思っています。私の場合。

だから、たまにどうでもいい脱力系ネタも投稿してる気がする・・。

noteで「書けない」「書くネタがない」と言っている人は、もしかして「役に立つ記事を書かねばならない」という意識にしばられていないか、少し考えてみてもいいのでは。

他人はあまり意識せず、お気楽でいいんじゃないかと思っています。



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