「他者貢献」と「仕事をやった気」は思わぬ弊害を生むのか
今回は普段の仕事を切り口に、
「他者に貢献したい、という熱い想いを持っている人間が、必ずしも良い仕事ができるのか?」について、考えてみたいと思う。
私の現在の仕事は大学の職員であり、大学に通っていた人なら想像がつきやすいであろう、学部運営の仕事に携わっている。
学部運営の仕事は多岐に亘るが、ステークホルダーで簡単に分類すれば、対教員もしくは対学生の仕事に振り分けることができる。
対教員については、学部の意思決定機関である教授会をはじめとした各種会合の運営の裏方で、教員が国会議員だとすると、我々職員は官僚のような役割である。(とはいっても、国を支える官僚の方々ほどの付加価値を発揮できているとは思っていないが)
具体的に言えば、新しいカリキュラムを教員が考える上でのたたき台となる資料を作成したり、その承認を得るための教授会で代表者が話す台本を作ったりなどの仕事だ。
私自身の仕事の比重はどちらかというと対教員の方が多いが、今回は対学生の仕事を切り口に考えていきたいと思う。
対学生の仕事であれば、学生の履修登録や成績のとりまとめ、休学といった手続きなどの実務が中心となる仕事。
私が約半年、職員として働いてきた中で思うことは、職員の多く(特に若手)はこの「対学生業務へのモチベーション」が比較的高い。
職員に共通しているマインドとして、「なんとか学生の助けになりたい」といった他者貢献の意欲が非常に強い。
これは素晴らしいことだと思う。こうしたモチベーションがなければ、大学職員として最低ラインには到達できないだろう。
しかしながら、この他者貢献が過ぎてしまうと、かえって学生もも不幸なのではないだろうか。
一旦、コロナ禍という特殊な状況は置いておいて、対学生業務で最も負荷が高い仕事の一つが「窓口対応」である。
要は、学部事務室に来た学生の質問や相談(主に履修登録や成績など)に乗ったりする業務で、若い職員を中心にこの仕事が任されている。
若いからこそ、学生の悩みにも親身に共感し、対応できる。職員自身も学生の悩みを解決してあげられれば、他者貢献感は満たされる仕事だ。
ただ、ここでひとつの問題点を感じることがある。
それは、「リピーター学生」の存在だ。
今まで検証していなかったようだが、過去の窓口対応履歴を検証したところ、そもそも窓口に相談に来る学生は全学生の2割~3割程度、つまり大半の学生は履修や成績に関する悩みを「自己解決」しているのである。
さらに分析すると、「相談に何度も訪れる学生」が全学生の1割ほどおり、彼らからの相談は、全相談の6割を占めている。
つまり、負荷が高い窓口業務の大半は、たった1割の学生によってもたらされていることになる。
<リピーター学生による問い合わせの割合>
「事務室の〇〇さんに相談すれば、きっと何かいい解決法を見つけてくれるだろう」
「〇〇さんにお願いすれば、なんでもやってくれる」
厳しい言い方をすれば、そういったちょっとした甘えがある学生が一定数存在し、職員がそれに振り回されてしまう構造になっていると言えるだろう。
ただ、そうなってしまう要因は主に職員側にあり、
高い他者貢献意欲のもと、窓口に来た学生には極めて親切に、なんでも対応してしまうことが、そうした甘えを生んでしまっているのだろうと考える。
窓口対応で学生の悩みを解決できれば、他者貢献を満たされ、仕事を「やった気」にもなるだろう、ただそういった一時的な満足感だけで終わってはいけない。
社会人の一歩手前である大学生の「自己解決力」を磨いてあげることも、我々職員にとって必要なことなのではないだろうか。
もちろんだが、窓口に来た学生を全員突っぱねる、ということをしてはいけない。それは我々職員の職務放棄だ。
我々は職員として、学生に貢献しなければならない。
その想いはブラさず、貢献の時間軸をもっと伸ばして考える必要がある。
具体的には、多少対応に時間がかかったとしても、相談に来た学生自身の思考を支え、ヒントを与えながら考えてもらう、そういった独り立ちサポートをするべきだと考えている。
※今年度はコロナ禍という特殊な状況下で、学生自身も暗中模索状態、そういった中で様々な質問や相談が何度も寄せられることは仕方がないとは思っている。あくまでも「平常時」を見据えた考え方であることをご理解いただきたい。