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「チェルノブイリの祈り」を読んで

今回はビジネス書ではなく、ノーベル文学賞を受賞した著者「スベトラーナ・レクシェービッチ」の「チェルノブイリの祈り」を読んだため、noteに記載していきたいと思う。
ビジネス書のように、他の方々も参考にできるようなフレームワークなどの説明ではないため、いつもの読書メモを書かず、感想のみを書くことにしよう。

この本を手に取ったきっかけは、友人の一人が「人生観を変えた一冊」に挙げていたこと。
チェルノブイリを経験した村々の人間や除染作業員の家族、研究員などへのインタビューが中心となって、当時や現在感じていることが赤裸々に綴られており、時に生々しい表現が彼らの体験の壮絶さを物語っている。
私自身、これまでチェルノブイリで起こった悲劇についてはほとんど知識を持たず、ましてやそこにいた一人ひとりの物語までは全く知らなかった。
決して美しい物語ではないが、私たちが記憶し、時代にとどめておかなければならないことだと思う。

本を読み終えて私が感じたものは、
①「知識」を持つこと、その知識をもとに自ら考えること
②自分の「知識」が常に正しくアップデートされているのか、客観視しながら他の角度からも情報を集め続けること
③自分の「信じるもの」のために命をかけられるか

①「知識」を持つこと、その知識をもとに自ら考えること
 多くの方々は、当時原発に対する知識は乏しく、事故後も何が起こったのかを正しく理解できていなかった。放射性物質で汚染された食べ物や飲み物を口にし、子供たちは外で遊び、政府の言われるがまま普通の生活をしていた。

②自分の「知識」が常に正しくアップデートされているのか、客観視しながら他の角度からも情報を集め続けること
 彼らが得られる主な情報は、政府からの発表。「放射能に勝利した」といった報道があれば、それを信じ、何も間違っていないと思い込んでしまっていた。「私たちは信じることに慣れていた」という一節が非常に印象的。

③自分の「信じるもの」のために命をかけられるか
 薄々放射性物質の危険性に気がつきつつも、自らの信条のために命を投げ打って作業をする人々。共産党員としての使命感を貫くため、「自分だけは逃げ出してはいけない」と現地に残り続けるトップ。

当時はテレビやラジオ等、統制された情報源に頼らざるを得ない状況下、こうした悲劇が繰り返されたことは言うまでもないだろう。
ただ現在の私たちも、インターネットの発達によって知識は簡単にアップデートできるように見えるものの、それら情報に介在している何らかの「意図」が存在するのか、そうしたところまで私たちは考えて生きていかなくてはいけないと思う。

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