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終戦から79年 戦争体験2(母の手記)


            敗戦の思い出
  (昭和54年8月記す)
           佐藤邦子
                                                     
 ミーンミンミン、ミーンミンミンうだる様なガンガン照りの頭の痛くなる様な猛暑が毎日続く、疎開先の生活は一枚一枚皮をはぐタケノコ生活。着ているものと食料との交換で朝食がすむと、僅かの食料の買い出し 、その日その日の食料集めが精いっぱい。幼ない子供達は目玉だけがギョローンとしてやせこけ、いつ終わるとも解らない戦争に勝利だけを信じて、国民一貫となって闘い、尊い老人から子供まで肉弾となって暮らす日々でした。来る日も来る日も敵機の来襲にただ歯をくいしばり、にぎりこぶしをふりかざして、くやし涙を流し、立ち去る敵機を見送るばかりでした。味方の飛行機は殆ど見られなくなっていました。
 私達は昭和19年の11月仙台駅集合、仙台市内の女学校4年は全員が11月の或る日学徒動員命で東京、神奈川方面の軍需工場に、ペンを機械に替え、最前線に送る兵器を製造。私は茅ヶ崎東京計器工場で、毎日工場の寮で列をなして声高らかに”花も蕾の若桜五尺の命をひっさげて 国の大事に殉ずるは我等学徒の本文ぞ ああ紅の血は燃ゆる”の声を朝な夕な美しい富士を仰ぎ乍ら若い血をたぎらせました。 
 朝、昼、夜と工場の食堂での食事は食べ盛りの私達には腹半分位しかありません。昭和20年の3月東京大空襲があった頃から、毎晩毎晩空襲警報のサイレンと共に先生の号令のもと全員防空壕に避難、朝方まで敵機の爆音を聞き乍ら死んでもいいからフトンの中で寝て居たいと毎夜毎夜願う日が続きました。
 7月の声を聞くと、毎年訪れる7月10日は仙台空襲の日を忘れることが出来ません。
大勢の戦没者の方々の御冥福を心からお祈りいたして居ります。
仙台空襲は9日から10日にかけて警報警報のサイレンが鳴り全市真暗闇に包まれ間もなく解除のサイレンと同時に敵機から第1弾ドカーンバラバラバラ真赤な炎が仙台駅方面に、私はその日は夜十時頃仙台駅に到着(茅ヶ崎から一週間の休暇で数十人が帰って来た)。すぐ家路に急ぎ間もなく空襲警報の中、少々晩飯を食べた間もなくの出来事。父は消防団で早速外出、弟(好一)妹(宏子)と共に西公園に歩いて逃げ西公園下の横穴防空壕に入る。その時は満員、第一号目の穴には二師団用のガソリンが一斗缶に積み重ねてあった。バラバラバラパーンパーン真赤な炎と煙は横穴の中まで入る。人々は恐れをなして第二、第三の穴の中に移った。我々は我が兄妹三人と数人しか残らず、でもどうしてか他の穴に移る気せず、焼夷弾の炸裂する音に腹わた、目玉、飛び出す思いす。ようやく明け方になって同じ防空壕から広瀬川に逃れた人達が敵機の機銃操作にやられ死をとげられたとの報に接しただ涙する。三人無事で安堵の胸をなで下ろす。地獄絵巻そのもの三途の川と化した。広瀬側のたもとには数千の人達が呆然と立ちすくみ仙台の中心街はガレキの山と化した。町を歩くにも灼熱地獄で焼跡にも行けず、罹災者は片平小学校に集められ、カンパンをもらう。父も私達の姿見つけ互いに無事を確認、消防団で怪我人を何度も何度も病院に運んだそうな。市電もストップ、市民は今夜も来るであろう敵機におののき、荷馬車を又リヤカーを引いてそれぞれの田舎に引き揚げる姿がみられた。
この日を堺にして仙台中心部の土地は二足三文で安く売り買いがあり終戦後は成金が続出ーーー。命からがら落着き先をみつけてはちりぢりに散って行く市民の顔があった。
疎開先の川崎に来て暑い暑い日が続く。仙台が恋しい、早く学校が始まればいいと待機状態の続く毎日、友達は皆バラバラ実に悲しい。放心状態のままーーーーー。
父母は毎日の様に仙台の方に足を運ぶ。8人の子供に食料を、また情報を聞くためか。
母は寝ずにミシン仕事に精を出してる。あの頃の暑さはクラクラ目のくらむ程のひどい暑さだ。全くの栄養不良のためかますます食料は制限されこうもり傘と長靴も配給。夢も希望もない日は実につらい。でも勝つことのみを信じて生き続ける日本人。アッツ島、ガダルカナル、サイパン、沖縄の玉砕のニュースが流れ、それでも勝利を信じて居たあの頃、
 あれからはや34年の年月が流れ戦争を知らない子供達が交通戦争の中に自ら尊い命を落としている。平和の大事さと戦争の恐ろしさを次の世代に語り継がれる日の多からんことをーーー

           8月15日の正午
 正午にニュースの時間、重大ニュースあり、田舎のこととてその意味が解らず様々の誤解で噂が村中流れた。終戦の御詔勅とも理解出来ず日本本土が決戦場になるだのとデマまで飛び交い村中混乱。二、三日後「日本が負けた」との確実な情報。全住民今まで張りつめて勝利を信じていた心の糸がプツーンと切れて死んだも同様、ただ焼けただれた深い傷にどうすることも出来ず、来る日も来る日も生ける死かばね同然。疎開者は終戦2、3日過ぎるとあてもないのに次々と自分の土地に帰り始めた。
 ジージージージー照りつける太陽にへとへとに疲れた体をひきずって帰る都会の敗北者達よ。神も仏もいない。本を読みたいーーーー、音楽も聞きたい。この思いがせきをを切って流れ出した。我が家族も間もなく仙台に引揚げ兄妹それぞれ通学。水を得た魚の様に仙台に帰れたこの嬉しさ、学校に通って友達と会える嬉しさ。精神的糧がほしくてほしくて片っぱしからあらゆる本を読みふけった。バラックの映画館が三越の屋上に、そしてバラックの映画館の青葉劇場、そしてダンスホール。あっという間にやけ跡には闇市場が出来、衣装、革靴、アクセサリー、食べもの、何でも出揃いはじめた。革靴一足二千三百円(この頃の月給金千八百円)ありがねはたいて買った時のよろこび。フランス映画が次々と上映された。「うたかたの恋」「にんじん」「望郷」「カサブランカ」次から次とメロデーが流れ、町全体若者で花の仙台を飾っていった。
 進駐軍も町にあふれパン助達のカタコトの英語で腕を組みカッポする姿がーーそして戦争孤児達があちらこちらに見られさまよう青少年の姿がーーー今も昨日のように目の奥に
やきついて離れないーーあれから今までに立派な青年諸君になっているであろうあの子達
 日本は建物、物資は満足出来る迄になったが心の文化はどこに置き忘れて来たのか?
今ベトナム難民が流出している。この平和な日本の三十四年前の姿と同じである。
国際児童年に際してもう一度子供の幸せを考えよう。そしてそして全世界が平和で楽しい国土を開発しよう。母親たる女性よ 互いに手をとり子供達を守ろう!

 今日は昭和54年8月6日午前8時15分、あの憎むべき原爆投下の時刻だ! 悲惨、残酷だ !
地獄だ!犠牲となられた広島の数多くの皆さんの御冥福を祈るものである。今日始めて国から三百万円の平和式典追悼式に対し補助が出たとのことである。何たることであろう。国の犠牲となられた方々 、広島の運命とは片付けられない。この日に対し始めての補助とは政府とは何か。いつの日か広島の慰霊塔に詣でる日のあることを念じる。

 昭和54年8月15日今日も暑い日だ。

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