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角田光代の到達、希望の本質-『紙の月』角田光代(2012年) 

 (※この記事3,130文字あります)

 角田光代の小説を読むと激しく心を揺さぶられるから、もうなかなか読むことはないだろうと思っていた。
 彼女の作品は2種類あると思っている。道具立ての派手な長編と、空恐ろしいまでに地味な日常を克明に描く短編だ。
 後者にあたる『トリップ』はお気に入りだし、『人生ベストテン』は図書館で借りたのに、のちに購入した。「銭湯」(『幸福な遊戯』収録)を、私はいちばんの恐怖小説だと思っている。
 冴えない日々の生活に、行き止まりの現在。それを書き、なのにうっすらと——こう書いていても信じられないのだが——希望を滲ませる作家を、私は他に知らない。

 前者にあたる小説、少女失踪事件の張本人のキャリアウーマンと専業主婦の友情はなりたつのか?(『対岸の彼女』)、不倫相手の娘を奪い、自分の子として過ごした逃亡生活と、その子どもの事件後の人生(『八日目の蝉』)。2つの長編は大きな賞を獲り、彼女の代表作になったが、私は「角田光代は変わった」と思っていた。そこには「できごと」が優先されていて、登場人物の内面は後回しのように感じた。
 そして「一億円横領事件」を書いた本作も、同じく私の興味をひかない社会派小説だと思っていた。

 なのに読んだのは、名著『絶望に効くブックカフェ』で紹介されていたからだ。著者のノンフィクション作家・河合香織さんは「希望をもつことは幸せか」という題で希望の本質を書いた。

「希望とは、現在ではないことを指すとも言える。それは、未来をあてにすることで、現在を裏切っているとも読めるだろう。」

『絶望に効くブックカフェ』P.28 河合香織(小学館文庫)

また、カミュからの引用で

「希望は、人々が考えていることとは反対に、諦念に等しいからだ。そして生きることは諦めないことだ」

『絶望に効くブックカフェ』P.28 河合香織

と書く。
 私は昔、希望に魅せられていた。けれど、希望だけ見るのは、「今」を無視して夢見ているに過ぎない、というからくりに気付いてからは、現実を生きなければいけないことを知ってしまった。「それでもなお、希望を捨てられない」(河合香織)のだけれど。

ただ好きで、ただ会いたいだけだった――わかば銀行の支店から一億円が横領された。容疑者は、梅澤梨花四十一歳。二十五歳で結婚し専業主婦になったが、子どもには恵まれず、銀行でパート勤めを始めた。真面目な働きぶりで契約社員になった梨花。そんなある日、顧客の孫である大学生の光太に出会うのだった・・・。あまりにもスリリングで、狂おしいまでに切実な、傑作長編小説。各紙でも大絶賛された、第二十五回柴田錬三郎受賞作。

『紙の月』文庫本 あらすじ(ハルキ文庫)

 事件のセンセーショナルさとは裏腹に物語は淡々と進んでいく。犯人の梨花は世間が思い描くありがちな人物ではなく、本当にただのパート主婦だ。私と犯罪に手を染める人の違いはさほど多くない。

 主婦の暮らしの苦しみを見る。子どもが欲しくても男次第。自分が妻を苦しめ、貶めているのに問題を解決しようとせず、目を背ける。私はセックスレスで検索した。男のプライドだとかで、パート主婦の年収より俺の方が上、と張り合う。私は最後まで読んでもこの男の言動はすべて謎だった。

 この小説では梨花が、梨花の同窓生・亜紀が、大食漢や摂食障害患者の食事のように買い物をしつくす。百貨店でパンツを勧められるままに色違いで購入し、トップスも出されたものを吟味せず飲みこみ、新作のサンダル、ホテルのスイートルーム、別マンションの家賃、フランス料理のコース、怒号がしそうな勢いで手放されるお金と、必要とは思われない物たちの濁流に、こちら側も酔った。
 買うつもりで商品を見ているとき、お金を払うとき、私はとても幸福な気がする。でも手に入れたあと、さっきまでの高揚感が消えている。なぜだろう?たぶん、不幸だから買い物がしたいのだ。一瞬でも満たされた気持ちになりたくて財布を開ける。

 デパートで新作のバックに手を伸ばすシーンにこんなことが書かれてある。

「夫は多忙で、もう何日もともに夕食を食べてないとか、自分に触れることを拒んだまま四年がたとうとしているとか、結局なし崩し的に子どもをあきらめていることとか、夫婦二人でこの先何を目指して生きていくのかじつはわからないとか(略)、そんな日常のあれこれをすべて忘れ、またそんなあれこれにいっさい関係ない特別な人間になったように思うのだった。そういう類いの愉快さだった。(略)自分が選ばれた誰かであり、いきたいところにいけ、ほしいものを手にできる、そんな気分に。」

『紙の月』単行本 P.138

 万能感に指先まで満たされたように感じる梨花。不思議だ。内面の種類はこんなにも急降下と浮上を繰り返すのか。この小説の別の側面として、「お金とは何なのか」という問いがある。

 最後のほう、梨花の幸福が崩れるシーン――つまりすべてが明るみになり、捕まる――を見たくなくて、でも読み進めるしかなくて、鼓動が早まっていた。

 逃亡先の土地で、梨花は悟る。私はこの文が描ける角田光代を、本当にすごいと思う。彼女には見えているのだ。どうしようもない人生にも、淡々とした、でも確たる美しさがあることが。
 ここで、始めに書いた“派手な長編と日常の短編”が見事に混じる。結果、角田光代は変わっていなかったんだと、今こうして書いて気付いた。

「もし光太と会っていなかったら、こんなことになっていなかったろうかと梨花は川を見つめて考える。いや、こんなふうになったのは光太と会ったからだとは思えない。もし子どもができていたら。もし正文と結婚していなかったら。(略)仮定は過去へ過去へ遡りながら無数に散らばっていくが、けれど、どの仮定を進んでも、自分が今この場にこうしているような気がしてならない。 
 そうして梨花は、ようやく、自分の身に起きたすべてのことがらが、進学や結婚に言うに及ばず、その日何色の服を着たとか、何時の電車に乗ったとか、そうしたささいなできごとのひとつひとつまでもが、自分を作り上げたのだと理解する。私は私のなかの一部なのではなく、何も知らない子どものころから、信じられない不正を平然とくりかえしていたときまで、善も悪もすべてひっくるめて私という全体なのだと、梨花は理解する。そして何もかも放り出して逃げ出し、今またさらに遠くへ逃げようとしている、逃げおおせることができると信じている私もまた、私自身なのだと。」

『紙の月』単行本

 自分探しという言葉は使わないが、梨花は「(例えばここで働いている自分は)自分自身のほんの一部」だと感じていた。
 私はこの表現をみて、梨花が、”いつか”本当の自分になれると希望しているのがわかった。”いつか夢を叶えたら”は、現実を生きていない私といっしょだ。
 自分を知ろうともがき、希望は外にあるのだと夢見る。希望とは、雲をつかもうとする夢なのだ。私は、夢という言葉が嫌いだ。でも、希望という別の言葉でカモフラージュして、ずっと心で繰り返していた。
 梨花は気づき、私は彼女に気付かされた。“私はどんな些細なことも含めて、もうすでに私だったのだ”と。
 もうすでに手の中にあった。

 私も梨花や河合香織さんと同じく、まやかしだったとしても、希望を捨てられない。未来に夢見て、その輝きを心の片隅にして、生きていくしかないのだ。そうしてもがくことが、私たちにとっての生きることだから。
 河合香織さんの本がなければ、私は角田光代と再会できなかった。
 それは停滞した人生の矜持を知らないまま死ぬということだ。

(2020年11月文/修正・転記)


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