角田光代の到達、希望の本質-『紙の月』角田光代(2012年)
(※この記事3,130文字あります)
角田光代の小説を読むと激しく心を揺さぶられるから、もうなかなか読むことはないだろうと思っていた。
彼女の作品は2種類あると思っている。道具立ての派手な長編と、空恐ろしいまでに地味な日常を克明に描く短編だ。
後者にあたる『トリップ』はお気に入りだし、『人生ベストテン』は図書館で借りたのに、のちに購入した。「銭湯」(『幸福な遊戯』収録)を、私はいちばんの恐怖小説だと思っている。
冴えない日々の生活に、行き止まりの現在。それを書き、なのにうっすらと——こう書いていても信じられないのだが——希望を滲ませる作家を、私は他に知らない。
前者にあたる小説、少女失踪事件の張本人のキャリアウーマンと専業主婦の友情はなりたつのか?(『対岸の彼女』)、不倫相手の娘を奪い、自分の子として過ごした逃亡生活と、その子どもの事件後の人生(『八日目の蝉』)。2つの長編は大きな賞を獲り、彼女の代表作になったが、私は「角田光代は変わった」と思っていた。そこには「できごと」が優先されていて、登場人物の内面は後回しのように感じた。
そして「一億円横領事件」を書いた本作も、同じく私の興味をひかない社会派小説だと思っていた。
なのに読んだのは、名著『絶望に効くブックカフェ』で紹介されていたからだ。著者のノンフィクション作家・河合香織さんは「希望をもつことは幸せか」という題で希望の本質を書いた。
また、カミュからの引用で
と書く。
私は昔、希望に魅せられていた。けれど、希望だけ見るのは、「今」を無視して夢見ているに過ぎない、というからくりに気付いてからは、現実を生きなければいけないことを知ってしまった。「それでもなお、希望を捨てられない」(河合香織)のだけれど。
事件のセンセーショナルさとは裏腹に物語は淡々と進んでいく。犯人の梨花は世間が思い描くありがちな人物ではなく、本当にただのパート主婦だ。私と犯罪に手を染める人の違いはさほど多くない。
主婦の暮らしの苦しみを見る。子どもが欲しくても男次第。自分が妻を苦しめ、貶めているのに問題を解決しようとせず、目を背ける。私はセックスレスで検索した。男のプライドだとかで、パート主婦の年収より俺の方が上、と張り合う。私は最後まで読んでもこの男の言動はすべて謎だった。
この小説では梨花が、梨花の同窓生・亜紀が、大食漢や摂食障害患者の食事のように買い物をしつくす。百貨店でパンツを勧められるままに色違いで購入し、トップスも出されたものを吟味せず飲みこみ、新作のサンダル、ホテルのスイートルーム、別マンションの家賃、フランス料理のコース、怒号がしそうな勢いで手放されるお金と、必要とは思われない物たちの濁流に、こちら側も酔った。
買うつもりで商品を見ているとき、お金を払うとき、私はとても幸福な気がする。でも手に入れたあと、さっきまでの高揚感が消えている。なぜだろう?たぶん、不幸だから買い物がしたいのだ。一瞬でも満たされた気持ちになりたくて財布を開ける。
デパートで新作のバックに手を伸ばすシーンにこんなことが書かれてある。
万能感に指先まで満たされたように感じる梨花。不思議だ。内面の種類はこんなにも急降下と浮上を繰り返すのか。この小説の別の側面として、「お金とは何なのか」という問いがある。
最後のほう、梨花の幸福が崩れるシーン――つまりすべてが明るみになり、捕まる――を見たくなくて、でも読み進めるしかなくて、鼓動が早まっていた。
逃亡先の土地で、梨花は悟る。私はこの文が描ける角田光代を、本当にすごいと思う。彼女には見えているのだ。どうしようもない人生にも、淡々とした、でも確たる美しさがあることが。
ここで、始めに書いた“派手な長編と日常の短編”が見事に混じる。結果、角田光代は変わっていなかったんだと、今こうして書いて気付いた。
自分探しという言葉は使わないが、梨花は「(例えばここで働いている自分は)自分自身のほんの一部」だと感じていた。
私はこの表現をみて、梨花が、”いつか”本当の自分になれると希望しているのがわかった。”いつか夢を叶えたら”は、現実を生きていない私といっしょだ。
自分を知ろうともがき、希望は外にあるのだと夢見る。希望とは、雲をつかもうとする夢なのだ。私は、夢という言葉が嫌いだ。でも、希望という別の言葉でカモフラージュして、ずっと心で繰り返していた。
梨花は気づき、私は彼女に気付かされた。“私はどんな些細なことも含めて、もうすでに私だったのだ”と。
もうすでに手の中にあった。
私も梨花や河合香織さんと同じく、まやかしだったとしても、希望を捨てられない。未来に夢見て、その輝きを心の片隅にして、生きていくしかないのだ。そうしてもがくことが、私たちにとっての生きることだから。
河合香織さんの本がなければ、私は角田光代と再会できなかった。
それは停滞した人生の矜持を知らないまま死ぬということだ。
(2020年11月文/修正・転記)