不幸の捉え直し-「壬生夫婦」江國香織(2006年)『Vintage'07』より
(1,490文字)
これを借りたとき、江國香織の『物語のなかとそと』を読んでいた。色んな媒体に載ったエッセイや短編をまとめた本で、未読の江國作品が読めるのがうれしく、もっと江國さんを読もうと思った。すぐに図書館の端末で検索し、存在の知らなかった本を予約した。そのときの一冊だ。
主人公の富美子(谷崎の小説に出てきそうな名前)は離婚していて、毎週土曜日に介護施設に入所している母の見舞いにいっている。
父と、父の後妻の可奈子とともに温泉旅行に行くこともある。可奈子は富美子よりも若い。
日曜日にはキルト教室通っている。元々は休みの日に夫と顔を合わせたくなかったから始めた習い事だが、生活を秩序づけるために続けている。一人になった今でも。
私が新鮮に思い、かつ安心したのは、富美子が孤独なことだった。私と同じくらいひとりだった。
私の知る限り、これだけ淋しく生活している江國作品の登場人物は見たことがなかった。
富美子は母の施設から帰宅すると「残酷だ」と自覚しながらも、愉快で笑いだす。『赤い長靴』(2005年/文藝春秋)にも似たシーンがあった。
友人と会うわけでもなく、夫もいず、恋人も(たぶん)いない富美子。母は、かつての自分を失った。朝、広すぎるベッドで、富美子の体は冷えている。孤独ではないか。
だがこうして描写されてみると、たしかに彼女は生きていて、物語になっているのが見てとれる。それは今の私も物語たりえる、つまり今の私もまた人生を生きているのだと教えられた。
富美子が孤独だとしても不幸に見えないのはなぜだろう。むしろ幸福だと書かれている。
それから、なぜこの短編のタイトルを「壬生夫婦」にしたんだろう。もう別れているのに。
終わりの文がふしぎだった。
元夫から電話がかかってきて、「シャトー・マルゴーを知らないか」と訊かれる。置き忘れてないかと。それが電話の口実なのは明らかに思える。そして、急に父の後妻とキルト教室の生徒の言葉が羅列される。
-モチモチになるのよ。
-いいのよ、お当番じゃないんだから。
「いい電話を、どうもありがとう」と富美子は言い、返事を待たずに電話を切り、物語は終わった。
父の若い後妻からボディスクラブを薦められたときの言葉と、キルト教室で、富美子に、別の生徒の意地悪を言う人の言葉。この二人のセリフが出てくるのは唐突に思えた。
だが、さっきなんとなく書かれた理由がわかった。「選択できる」ことが書かれてあるんだ。断れる自由な身であることを。
(読んだことのある方、どう思いますか?)
孤独かもしれないけれど、これからなんでもできる。これから誰かに出会うかもしれないし、どこへでも行ける。なぜなら富美子の体はまだ元気だし、富美子が朝から風呂に入るのを嫌がるような夫はもういないから。
孤独をよくないことだと思い込んでいる私をハッとさせる20ページの短編だった。ちょっと革命だった。
(2021年・文/転記・修正)
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