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芸術が暴きだす心の奥底-『蜜蜂と遠雷』恩田陸(2016年)

(1,987文字)

 私は、まだ 音楽の神様に愛されているだろうか。
3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
「芳ヶ江を制した者は世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝する」ジンクスがあり近年、覇者である新たな才能の出現は音楽界の事件となっていた——。

自宅にピアノを持たない少年・風間塵16歳。
天才少女としてCDデビューもしながらも、母の突然の死去以来ピアノが弾けなくなった栄伝亜夜20歳。
音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマン高島明石28歳。
完璧な優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ=アナトール19歳。

彼ら4人をはじめとする数多の天才たちが繰り広げる競争という名の自らとの闘い。
第1次から3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?

幻冬社HPより

 史上初直木賞と本屋大賞をダブル受賞した本作。

 音楽を平面で表現するのは難しい。でも、人間の理解が言語を解する必要があるなら、小説の中に音を表現させることも可能なはずだ。
 選考が進むごとに登場人物の数だけ音の描写を書き続けるのは非常に骨の折れることだったと推測する。恩田陸はこれでもかというほどの、いくつものバリエーションでそれを達成した。彼女にはふたつの大きな才能がある。音楽をつぶさに聴き、感じ取る力、そしてそれを言葉に置き換える筆力。この豊かさだけでも読む意義がある。

 どうしてこんな、天から音が降ってくるような印象を受けるんだ?(略)
 そう、音が尋常でなく立体的なのだ。なぜこんなことができるのだ?

『蜜蜂と遠雷』上巻P.281

 世界が自分の知らない-いや、もしかすると誰も知らない、とてつもなく美しいものに満ちていると気付いた瞬間、あまりにも自分がちっぽけなことに驚いたのと同時に感じた畏れ。

『蜜蜂と遠雷』下巻P.290

 たゆたうときの流れの底に沈んでいるさみしさ、普段は感じていないふりをしている、感じる暇もない日常生活の裏にぴたりと張り付いているさみしさ。たとえ誰もが羨む幸福の絶頂にあっても、満たされた人生であったとしても、すべての幸福はやはり人という、生き物のさみしさをいつも後ろに背負っている。
 それについて深く考えてはいけない、一度気付いてしまったら打ちのめされてしまう、(略)だからこそあたしたちは歌わずにはいられない-このさみしさを、刹那を、生き物たちの長い長い歳月から見れば一瞬にしか思えぬ人生の幸福と不幸を。

『蜜蜂と遠雷』下巻P.305

 三次予選の演奏で亜夜は僥倖を獲る。そこでは観客が「安心しておのれの人生を委ねられるという安堵と期待」を感じていた。彼女の指から紡がれる音楽を通して自分の人生を振り返る体験をするのだ。

 それは村上春樹の「蜂蜜パイ」(『神の子どもたちはみな踊る』収録)を読んだときの私と同じで、深く頷いた。素晴らしい作品に触れたとき、そこに書かれていたものは私のことじゃないのに、なぜか自分の人生が直接思い出されるのだ。

 彼女の指から生まれる一音一音のすべてが深く、意味があった。曲のすみずみまで彼女自身が息づいているのに、同時に彼女は匿名の存在であり、その音楽に普遍性がある。(略)
 演奏するのは、そこにいる小さな個人であり、指先から生まれるのは刹那刹那に消えていく音符である。だが、同時にそこにあるのは永遠とほぼ同義のもの。
 限られた生を授かった動物が、永遠を生み出すことの驚異。

『蜜蜂と遠雷』下巻P.316-317

 一瞬の中に永遠を見る、と、作品の別の箇所にも書かれていたが、私はまだその感覚を見つけられていない。もしかしたら世界は美しいのかもしれない。もしかしたら世界はもうすでにそれを見せてくれているのかもしれない。私が気付いていないだけで。

 人間の最良のかたちが音楽だ。
 そんなことを思った。
 どんなに汚くおぞましい部分が人間にあるとしても、そのすべてをひっくるめた人間というどろどろした沼から、いや、その混沌とした沼だからこそ、音楽という美しい蓮の花が咲く。
 僕たちは、あの蓮の花を、いつまでも咲かさなければならない。もっと大きな花、もっと無垢で美しい花を。それが、人間であることに耐えていくよすがであり、同時に報酬なのだ。

『蜜蜂と遠雷』下巻P.451

 人間であることに「耐えていく」。この表現が嬉しい。生きることは苦しみと虚無の上に立脚する歴史だ。私はそれに絶望していたが、それを知っている人がいた。そして作者は、そこから生まれる意味のあるものを示してみせた。「これがあるから生きられるもの」があることを。

 観客として三次選考を聴いていた高島明石が「敬虔な気持ちになる」シーンがある。
 そうだ、この言葉を忘れていた。私が本に向き合っているときの気持ちは敬虔そのものだった。私もこの沼の道を文学と共に生きていく。

(2021年・文/修正・転記)

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