
思索がわたしを生かす日々-『友だち』シーグリッド・ヌーネス(米2018年 日本2020年刊行)
(1,701文字)
いつもの持病を発症しながらうろついていた本屋で、タイトルが気になって手に取ったら、裏表紙に江國香織さんの名前が載っていて運命を感じた。
誰よりも心許せる初老の男友だちが自殺し、大きな空洞を抱えた女性作家の狭いアパートに、男が飼っていた巨大な老犬が転がり込む。真冬のニューヨーク。次第に衰えゆく犬との残された時間の中で、愛や友情のかたち、老いること、記憶や書くことの意味について、深い思索が丹念に綴られてゆく……。2018年全米図書賞受賞作。
かつてのライティング教室の師であり、恋心を抱いたこともある友人が自殺した。作家であり、彼と同じく学生に指導する身となった主人公は、彼の最後の妻から犬を預かる。だが、物語はそういうふうには-想像するようには-進まない。
書くことについて、文学についての考察。作家とは、作家業とは、そして、江國さんのレビューを引用するなら、人生、愛、今という時代、死についての考察も出てくる。犬についても多い。
「訳者あとがき」に書いてあるとおり、ここにはストーリーというよりも「“わたし”の脳裏をよぎるさまざまな想いが日誌のように書きつけられている」。
けれども、わたしは、これこそ文学だと感じた。
「思索を促す小説」(江國さん)。それは事件らしい事件がなくても日常は過ぎていくし、日常こそ物語だというわたしの想いと符合する。そして、思索こそが人生を深くするものなのだ。答えのためじゃなくて、考えること自体に意味がある。
わたしはこのストーリーらしくない小説が、米国で最も権威ある全米図書賞を受賞していることに驚く。誰もが楽しめる作品だとは言えないからだ。たくさんの引用、作家の言葉、挿入される短い文章。
この作者はスーザン・ソンタグに関する著作があるそうだが、納得した。読んでいる最中頭に浮かんでいたから。『存在の耐えられない軽さ』も浮かぶ。
「わたし」はライティングを教えているから「書くこと」については、とりわけ多く記述している。作家になりたい学生たちや、人身売買の被害者たちの治療のために「書くこと」と向き合う。
「書いているものを自分だけのものにしておきたいと考える人はどんなにめずらしいことか。そして、いかに多くの人たちが、自分が書いているものは一般大衆に読まれる価値があるばかりか、それで名声が得られると思っていることか。」
耳の痛いことばだ。
学生たちは、まあひどい。(学生との関わりや、会話など、一般的な書かれ方はしていない。ここでも「思索」に基づいて書かれている。)
今や(作家を目指している学生ですら)読者は「友達になりたいような種類の作家」でなければ嫌悪されるそうだ。
「自分の同一視できるもの、自分と結びつけられるもの」
「アンネの日記は、なにも特別なことは起こらないし、物語がいきなり中断されてしまうし、すこしも笑えるところがないという苦情。」
「“自分のことばかり書いているから、ジョイスはきらいだ”」
「“白人の問題についての本をなぜわたしが読まなければならないのかわからない”」(P.136)と言う。
作家の欠点に不寛容-そんな時代なのだとしたら、文学は必要なくなっていくのではないか。(アンネが「笑えない」???)
女性作家はファーストネームで呼ばれる、とも書いていて、欧米もそうなんだ、と思った。たとえば今、オリンピックを観ていてもそうだ。女性選手は下の名前で呼ばれる。なぜ? わたしもスポーツ選手や小説の登場人物を名前で呼んでいる。疑問なのにやめられない。
この小説は全編に孤独さが下敷きになっている。わたしはそれが気に入っている。孤独はわたし。わたしは寂しさと虚しさ。孤独を知らなければ、わたしは幸福なのかもしれない。
もしあなたも苦しみがあるなら、読んでほしい。思索があなたを生かすだろう。
「何もかも、素晴らしくてよかった」と江國さん。今(2024年8月8日の今)、わたしはこの本を再読したい。今、書いて生きていきたいと思っているわたしが読んだら、3年前とは別の感想を持つだろう。
(2021年7月文/修正・転記)

