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短編小説『いつもじゃない』

 スマホのアラームを止めて数分後、起き上がると大きく伸びをしてベッドを抜け出す。裸足で踏むフローリングはいつも他人行儀で、ひんやりと冷たい。キッチンでグラス一杯の水を飲んで、トーストを焼いた。お決まりの朝食を食べて、意味もなくスマホの画面をスクロールする。今日もいつも通りの休日か。窓越しにベランダを見ると、セキレイが物干し竿に止まっていた。いつも通りじゃない休日、もいいかもしれない。

 私はクローゼットの奥にしまいこんでいたアイボリーのワンピースを身に纏って、いつもよりふんわりと髪を巻いてみた。まったく減っていない色のアイシャドウを瞼に乗せて、もらいもののリップを塗ってみる。いつもと違う、けれど案外いい感じ。上機嫌にヒールブーツを履いて、鍵を閉める。目的地はちょっとだけ遠いどこか。普段使っているのとは反対方面の電車に揺られて、見慣れない街並みをぼんやりと眺める。川の水面が、太陽の光をきらきらと反射していた。

 ここだ、と思って下車した駅は古着屋さんや喫茶店が立ち並ぶ雑多な町。SNSやテレビで見かけるたび気になっていたのに、今までは足を伸ばせなかった場所。駅の改札を抜けると、途端に「青空市」の看板が目に入った。駅前の広場には、古着屋さんやアクセサリー屋さん、焼き菓子のお店などさまざまなお店が簡易的なスペースを設けて集まっている。

「わぁ、綺麗……」

 目に留まったのは透明なガラスの瓶に青い花が閉じ込められたもの。

「こちらはハーバリウムといって、ドライフラワーを専用のオイルに漬けたものです。半年から一年間はこのままお楽しみいただけます」

 立ち止まった私に気づいた店員さんがディスプレイの向こう側からこちらに出てきて、商品の説明をしてくれる。青い花が入ったそれの隣には、ピンクや黄色の花が入ったものも並んでいた。液体のなかに花が浸っている様子はなんだか神秘的で、引き込まれてしまう魅力がある。

「この、青いお花のものをひとつお願いします」

「わ、ありがとうございます。このハーバリウム、私が作ったものなんです。ぜひ飾って楽しんでください」

「そうだったんですね、とても綺麗だなと思って。ありがとうございます」

 せっかくの素敵な出会いだ。殺風景な私の部屋に合うかはわからないけれど、このハーバリウムを眺めればきっと、明日からも少しだけ明るい気持ちで過ごすことができる。包んでもらったハーバリウムが入った紙袋を片手に下げて、私はまた歩き出した。ちょっとお腹が空いてきたな。

「レコードカフェ……」

 知らない路地を曲がって見つけた黒い看板には、「店内レコード多数! おすすめは手打ちパスタです」と白いチョークで書かれている。レコードのことはなにもわからないけれど、手打ちパスタが気になる。私は雑居ビルの階段をのぼって、二階にあるそのカフェのドアを開いた。

「いらっしゃいませ。一名さまですか?」

「はい」

「こちらのお席へどうぞ」

 お洒落なタトゥーに、ハイトーンの坊主頭。ちょっとコワモテの店員さんが席へ案内してくれて、お冷やとおしぼりを手渡してくれる。この街で働いている人はみな、自分の好きを持っているんだな。

 私はアイスティーとカルボナーラをオーダーして、店内にディスプレイされたたくさんのレコードを眺めた。フロアの隅っこにはレトロなレコードプレーヤーが置かれていて、落ち着いたジャズが流れている。

「お待たせいたしました。アイスティーとカルボナーラです」

「おいしそう……ありがとうございます」

 すっきりとした味わいのアイスティーをひとくち飲んで、フォークを手に取る。中央に乗っている半熟の卵黄を崩して、パスタと絡めた。クリーミーなソースがつやつやしていて、食欲をそそられる。

「わ、おいしい……」

 思わず呟いてしまうほどには、感激した。手打ちのパスタはもちもちとした弾力があって、カルボナーラソースとの相性も抜群。一度食べはじめてしまえば手は止まらない。あっという間に完食して、なくなってしまった……と切ない気持ちになってしまうほどおいしかった。

「あの、すごくおいしかったです。ごちそうさまでした」

「そう言っていただけると嬉しいです。またいつでもお待ちしてます」

 すっきりとした味わいのアイスティーを飲み干してお会計をしてもらうと、レジ横に置かれた一枚のフライヤーが目に留まった。

「これは、常連さんが組んでるバンドがやるライブのフライヤーで。今日、そこのライブハウスでやるらしいので、よかったらぜひ」

「ライブ……楽しそうですね。一枚、いただいていってもいいですか?」

「もちろん」

 私はフライヤーを一枚手に取ると、ありがとうございましたと頭を下げてカフェを出た。ライブハウスなんて、行ったことないな。スタイリッシュでシンプルなフライヤーには、Petrich0rペトリコールというバンド名とライブについての情報が書かれていた。ライブハウスはここからすぐ近くで、ワンドリンク制。当日券はドリンク代込みで二千円。怖いもの見たさにも似た興味がむくむくと湧いてきて、ひとまずそのフライヤーに記されたライブハウスを見に行くことにした。

 そのライブハウスは、地下にあるらしい。地下へ続く階段の上に立ち止まって、ちょっと入りづらいなぁ、と思いながらも地図アプリに載っている口コミや写真をスクロールしてみる。飛び込みでライブを見に来る人も結構いるんだな。あと一時間もすれば開場時刻の一八時だ。今日くらいは、勇気を出して飛び込んでみようかな。悩んでいると、ギターケースを背負った長身の男性が道の向こう側から歩いてきて、慌ててライブハウスの前を退散する。さっきの人は、出演者だろうか。

 ファストフード店に入ってフライヤーに書かれたバンド名を検索してみると、楽曲が配信されているのを見つけた。私はイヤホンをつけて、いちばん上の曲を再生してみる。音楽のことなんてなにもわからないのに、繊細で綺麗なギターの音色だ、と思った。ボーカルの透き通った歌声とやさしいドラム、安定感のあるベース、繊細なギターの音色が重なったその楽曲はうつくしくて、生で聴いてみたくなる。ライブ、行ってみよう。やっと覚悟が決まって、他の曲も再生する。本当に綺麗な音楽だな、と聞き惚れている間にもうすぐ一八時。私は席を立って、さっき来た道を戻った。

「当日券一枚、お願いします」

「ありがとうございます、こちらのドリンクチケットをカウンターでお引き換えください」

 ドリンクはチケットと引き換えるシステムらしい。なにもかもはじめてだな、とドキドキしながらカウンターへ向かって、ジンソーダを受け取った。ドリンクを飲むべきタイミングだってよくわからないけれど、ライブが始まる前に飲んでしまおう。私は後方の丸テーブルを陣取って、お客さんがフロアに入ってくる様子を眺めながらちびちびとお酒を飲んだ。楽器が並んだステージではスタッフの方々が忙しなく動いていて、インストの音楽が流れている。ちょっと早く来すぎてしまっただろうか。

「お姉さん、Petrich0rのライブは初めてですか?」

「あっ、は、はい。フライヤーを見かけて」

 私と同じテーブルに瓶ビールを置いて微笑んだ、青髪の男性。急に話しかけられて、テンパってしまった。

「いいですよね、Petrich0r。僕もこのライブハウスで最近知ったんですけど、すっかり大ファンで。今日はおひとりですか?」

「そうだったんですね。ライブハウスもはじめてなんですが、ひとりで来てみました……お兄さんもおひとりですか?」

「僕もひとりです。楽しみましょうね」

 このお兄さん、もしかしたらいつもこのテーブルで聴いているのかもしれない。だとしたら、申し訳ないことをしてしまった。

「僕もここで聴いていっていいですか? 前の方に立つのは、どうも苦手で」

「あっ、はい、もちろん、ぜひ」

「ふふ、そんなに肩肘張らなくても、大丈夫ですよ。やさしい音楽と、バンドだから」

 切れ長の目と髪色からなんとなくクールな印象を受けたけれど、柔らかく笑う人だ。あのバンドの音楽を好んで聴くのだから、きっとこの人もやさしい感性を持っているのだろうな。名前も年齢も知らないけれど、今はそれが心地いい。しばらくその人とお話して、フロアが暗転するころにはすっかり緊張が解けていた。

「はじまりますね」

 ステージの照明を見つめたその人の瞳は、きらきらしている。私もステージの方を向いて、袖から出てきたメンバーの姿を眺めた。フロアの前方は、彼らのファンでぎゅうぎゅうだ。

「こんばんは、Petrich0rです」

 しゃらん、と鳴った藍色のギター。周りにならって、私も拍手をする。ギターを抱えてスタンドマイクを握ったその人は、ここへ来るか迷っていたときに見かけた長身の男性だった。ドラムの人が「ワン、トゥー、スリー、フォー」とリズムを刻めば、ファストフード店で聴いた楽曲のイントロがはじまる。イヤホン越しとは違う楽器の響きに、心臓が震えた。Petrich0rの音楽は本当にうつくしくて、ちょっと切なくて、やさしい。隣の彼は、ゆらゆらと揺れながらときおり目を瞑って、その音楽に耳を澄ましていた。

 ライブが終わって地上へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。二時間経ったとはとても思えないほど、一瞬にして終わってしまったような、だけれど永遠に覚えていられそうな、そんな夜。隣にいた彼は、打ち上げに顔を出していくらしい。私は後ろ髪を引かれるような思いで帰りの電車に揺られて、来月のライブを予約した。なにもかもがいつもとは違った一日。思い出すだけでちょっとにやけてしまうほど楽しくて幸せだった今日は、ぴかぴかの好きと勇気を私にくれた。


Fin.

(※この作品はフィクションあり、実在する人物・団体とは一切関係ありません。)


こちらは2024/03/24に行われた吉祥寺ZINE FESTにてフリーペーパとして配布した作品です。キチジンから帰ってこの小説を読んだときに、「今日みたいなちょっと特別な休日もいいなぁ」とあたたかい気持ちになっていただけたらいいな〜!という気持ちで書きました。知らない場所や人との出会いのひとつひとつを大切にしたい、と改めて実感した1日でした。

お手に取ってくださった方、noteで読んでくださった方、ありがとうございました!


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