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社会のものさし≠自分に合ったものさし

ここ最近、焦りすぎていたように思う。

約5年間勉強して、それでも東大に手が届かなかった。二浪までして唯一合格できたのは同志社大学。同志社を馬鹿にしているわけではない。けど、これ以上ないくらい努力しても、第一志望に手が届かなかったことが悔しくてたまらない。惨めでたまらない。応援してくれた家族や恩師に合わす顔がなかった。何よりも、自分の能力の無さが嫌になった。

だから、「汚名を返上せねば」と焦っていたんだと思う。もっと沢山本を読まなきゃ。講義を完璧にこなさなきゃ。何かすごいことをしなきゃ。自分を追いこみすぎていた。視野が狭くなって、大切なことが見えなくなっていた。

だけど、ひょっとすると、能力不足だったわけではないのかもしれない。ただ、受験というゲームのルールが自分には合っていなかっただけなのかも。人によって学び方・上達の仕方は様々だ。各々にあったやり方が存在するだけで、そこに正解or不正解はない。

受験では、素早く物事をこなすこと、同じ問題を繰り返してパターンを習得することが求められる。でもそれは自分に合ったやり方ではなかった。私はむしろ、じっくり丁寧に勉強するタイプだ。同じことを繰り返すのは嫌いだが、異なるものを比較して、差異や共通点を明らかにするのは得意だ。

もちろん、試験に勝つためには定石に従う方が賢明だろう。しかし、こと人生というより長いスパンで見たときに本当に必要なのは、決められたルールに従うことではなく、自分に合ったやり方を見つけることなのだ。

社会は前者を賞賛する。だから、それにそぐわない自分は無能なのだと思ってしまう。“優等生“にならなければと焦ってしまう。けど、社会がどれだけ賞賛するものだとしても、それが自分にも最適だとは限らない。やり方が適していなければ上達するはずもないし、何より楽しくない。

焦って何かをする必要なんてなかったし、元のままで十分うまくやれていた。私は私のままでよかったのだ。たとえ社会から評価されなくても、それは私にとって最善の道だった。今まで積み重ねてきたものは、確実に私の中に息づいている。

あるレースに負けたとして、それは「特定のルールの下」での敗北を意味するにすぎない。決して、自分自身の無能さを証明するものではない。もちろん努力不足だった可能性もあるが、ルールが自分に適していなかっただけの可能性も大いにありうる。

だから、過度に自分を卑下しなくていい。「もっと“優秀“にならなければ」と焦って自分を見失ってはならない。社会の評価よりも大事なことは、自分に合ったやり方を見つけることなのだ。

たとえそれが社会で評価されるものでなかったとしても、それは確実に人生を豊かにしてくれるものである。評価の低さを自身の無能さの根拠にするな。いい評価を得ようと焦るな。私は私のままでいい。無理して変わる必要なんてどこにもないのだ。

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