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【短編小説】微熱屋

こんにちは。
坊っちゃん文学賞に応募した作品です。3529文字です。

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微熱屋

 しゃぼん玉みたいに浮いて、泡みたいに弾けられたらいいのに。そうしてわたしは消えてしまいたかった。これはか弱い少女による空想などではなく、二十歳もとうに過ぎた独身女の切実な願いだ。
 手の中で持て余している缶ビールの中身はフローリングに滴り落ちる。わたしはビールが飲めない。これはどうにも苦くてかなわない。灯りがついていない部屋は月明りがないせいで余計に闇が濃く見えた。
 手から滑り落ちた缶ビールがカランと鳴いた。アルコール中毒だった兄を思い出す。わたしと四つ離れた彼は文武両道を具現化したみたいな人だった。気がつけばいくつものコンクールで賞を貰い、あらゆる受験に一発合格し、有名な国立大学を首席で卒業していた。自分とは大違いだとずっと遠くからその背中を眺めるばかりだったわたしはと言うと、なぜか引きこもりになっていた。なぜかわたしは賞など貰えず、受験にも失敗し、滑り止めで入った大学を中退したし、もちろんその経験はわたしの自己肯定感をごりごりと削ぎ落としていった。
 そしてわたしが大学を中退した去年の夏、兄は急速にアルコールへ溺れていったのだ。両親も勤め先の同僚も上司も口をそろえて「どうして」と涙した。本人はそうなったことに関して固く口を閉ざす始末で、次いでうつ病を発症、自傷も止まらず精神科に入院する運びとなった。
 ざまぁみろ、わたしは密かに思っていた。昔からずっと兄のせいでつらい思いをしてきたのはわたしだし、当の兄はそんなわたしを見て見ぬふり。いつも哀れむような目で静かにこちらを見る兄が、わたしはとても嫌いだった。
 不規則に揺れるカーテンに包まれながら、重たくなるまぶたを必死にこじ開けていたがそれも限界で、わたしの意識はゆるゆるとその場からいなくなってしまう。次に目を開いたとき、そこは部屋ではなくどこか知らない会場だった。わたしは会場内の、舞台に立っている。たったひとつのスポットライトに照らされて立ち尽くしていると、舞台の袖から燕尾服を着た人がひとりこちらに歩いてくるのが見えた。男性、ではない。いや、ではないと言い切ることもできない。若い女性かと思った次の瞬間には初老の男性に見える。年齢も身長も、なにもかもが定まらない。ただ燕尾服を着ている人間という事実だけがそこに人の姿をして転がっている。
「はじめまして」
 ぼうっと宙を眺めるわたしに、燕尾服は話しかけた。その声は顔と同じで、高かったり低かったり男性的だったり女性的だったりした。
「……こんにちは。わたしになにか用ですか」
「あなたに、お届けものです」
 燕尾服はなめらかな動きで懐に手を忍ばせ、生成り色の巾着を取り出した。両手の平におさまるくらいの大きさだ。わたしのほうへ差し出し、じっとこちらを見つめる。この空間で、その巾着だけがわたしの記憶と心を揺さぶった。あれは、いつか、どこかで、見たことがある。とても近くにあったもののような気がする。
 半ば反射的に歩み寄り巾着を受けとった。空気みたいに軽くて鉛みたいに重たい巾着の紐は口を噤むみたいに静かに結ばれていた。
「どうぞご自由に」
 開けるのもそのままにしておくのも、あなた次第です。燕尾服が言う。
「ただ、それはあなたのために、贈られたものです」
 燕尾服は、もうそこにいなかった。
 この巾着は頭が痛くなるくらいわたしの記憶をこじ開けようとしてくる。しっとりした生成り色の生地、手作りらしくところどころ糸がほつれてしまっているし縫い目も雑だ。巾着をぐるりと回してみると、そこに青い糸で刺繍された文字と思しきものがあった。読みづらいことこのうえない、幼稚園児が書いたみたいな汚い文字だ。
「……な、つ……」
 ひらがなが三文字。残る文字は、
「……は」
 なつは、夏葉。夏葉は、兄の名前だ。そしてこの巾着は、コンクールで大賞をとった兄を祝うべくわたしが作った、プレゼントだ。小学校低学年だったわたしは兄の受賞が決まったその日からずっと、家庭科の授業で覚えたばかりの巾着を縫っていた。お小遣いで買った生成り色の生地を使ってせっせと、刺繍までして。
 どうやら兄はかつてのわたしから贈られたその不格好な巾着に入れたなにかを、あの燕尾服を介してわたしに贈りたいらしかった。しゅる、と心地良い音がして紐が解ける。
「…………」
 瞬間、わたしの心が熱を持つのがわかった。なにかに感動したときのような、誰かにめいっぱい褒められたときのような、なにかで心が満たされたときのような、自分が認められたときのような。あらゆる熱さが体じゅうを包む。体温が微かに上がった気さえした。そして最後に見覚えがあるようなないような景色が記憶を通り過ぎた。
 震える手で巾着を覗き込む。一枚の厚紙と、あとは空っぽだった。厚紙には文字が印刷してあり、それは名刺のようにも見えた。中心に細い文字で『微熱屋』とあった。
 ─あなたの人生最高の瞬間、買います。だれかの人生最高の瞬間、売ります。
 ふと思った。わたしがたった今感じた熱、それは誰かの人生最高の瞬間だったのだろうか。兄は、誰かの人生最高の瞬間を買いわたしに贈ったのだろうか。そうすると兄はなにかしらの対価を支払ったのだろうか。じゃあ、わたしが熱を感じるとともに見たあの記憶は、まったく知らないなんて言いきれないあの記憶は─。
 すっとまぶたが開く。時刻は昼を過ぎているのにもかかわらずなんとも清々しい目覚めだ。世界は昨日より輝いて見えるしなにより気持ちが楽なのだ。不必要な汚れが落ちた心とは斯くも居心地が良いのか。久しぶりに訪れた軽い気分の高揚にわたしは震える。
 バスに乗り込み座った席で、スカートにのせた生成り色の巾着袋をぎゅっと握りしめた。二本乗り継いた先の病院で会った兄はずいぶんと痩せて生気の欠片もなかった。これでも元気になったほうなんですよと、主治医は言う。丸いテーブルを挟んで座ると、兄の猫背は勢いを増した。わたしは怯むことも無駄にはきはきすることもなく兄に向かい合う。
「急だったのに、会ってくれてありがとう」
 本心であったが今やなにもかもネガティブに捉えてしまうこの兄がわたしの言葉を歪曲して受けとってしまうのではないかと考えたが杞憂だった。
「…………呼春が、会いに来てくれて、うれしかった」
 その言葉にも嘘はないように見えた。兄は昔から本当にうれしいとき左手で首をかくから。わたしまで少しうれしくなって、その勢いでバッグから生成り色の巾着を取り出した。兄は一瞬、長い前髪に隠れた目を見開いた。
「……あの人、ちゃんと呼春に渡してくれたんだな」
 確信が持てた、やはりこれを燕尾服に預けたのは兄なのだ。
「ねえ、じゃああれは、中に入ってたあれは」
 言い終わる前に兄は椅子を引いていた。とても寂しそうな笑顔で、その場を去ろうとする。
「もうそれは呼春のものだよ。ちゃんと貰ってくれてありがとう」
 わたしは、我慢ならなかった。
「お兄ちゃん!」
 突然院内に響いた悲痛な叫びに周囲の患者と看護師が注目する。兄は周りを気にして、もう一度椅子に座らざるを得なくなった。巾着をやさしくテーブルに置く。どこかばつが悪そうに、兄は言う。
「……夢だと思ったんだ」
「夢……?」
「ずっと悩んでた、呼春が僕と比べられて育ったこととか呼春だって出来る子なのに僕のせいで褒められもしないことに」
 それは事実で、改めて言葉にされると少し泣きたくなった。けれど、そう告げる兄も泣きそうに続ける。
「……夢のなかで、燕尾服の人が僕に言うんだよ、あなたの人生最高の瞬間を売りませんかって。もちろん対価は好きなように支払うからって。だから僕が今まで得た最高の瞬間……賞を貰ったときとか受験に合格したときとか、とにかくうれしかった瞬間をすべて売るから、対価の代わりに半分を妹に渡してくれないかって、言った」
 あの熱は、だからすべて兄が感じたものなのだ。過ぎていった記憶はその断片なのだろう。
「呼春は僕の熱を持つことで、生きていく力が湧くと思ったんだ」
 余計なお世話だったかもしれないけどと、兄は力なく笑った。わたしはひたすら唇を噛みしめていた。間違いなく兄に愛されていたたったひとりの妹に、わたしに今できることはなんだ。
「お兄ちゃん、わたしといっしょに生きてよ」
 すべてをわたしに与えた兄に残されたのはわたしだけかもしれない。今の兄に熱がなくても自己肯定できる力さえなくても、これから育てていくことはできるかもしれない。だってわたしがそばにいるから。
 わたしの涙ながらの言葉に、兄は微笑んだ。それから静かにしゃくり上げる。
「呼春は、いつだって僕に熱をくれるね」
「お兄ちゃんに似たんだよ」
 そのくしゃくしゃの泣き笑い顔は昔となにも変わらなかった。

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