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心が100%NOと言っている
自分の内面に向き合い始めてから、
心の輪郭を少しずつ捉えられるようになってきました。
100ゼロ思考に陥りかけていることに気付いて食い止めたり、
自分の心が今、なんと言っているのか、
その声に耳を傾けられるようになってきました。
心が何と言っているのか。
自分が何を感じているのか。
それはその人の人格そのものであり、
人間の尊厳とも言えると思います。
それを剥奪されるかのような幼少期を過ごしたので、
”心”の在り方がわからない、
”心”の感じ方がわからない、
”心”の声を聞くことができない、
自分がそうなってしまっていたことは、
致し方なかったと思います。
もちろんその家庭の在り方を、庇うわけでも、容認するわけでもなく。
私が自分の心をまるで捨てるようにしていたのは、
幼い私が身に着けた、生きる術だったと思うのです。
少しづつ、自分の心を大切に扱えるようになってきた今では、
ようやくその”心の声”をキャッチできるようになりました。
例えば自分の心が、全力で「ノー」と言っている時。
先日もありました。
外側で発生した事象に対して、それが発生した時から、
私の心は全力で「ノー」と言っていました。
気持ちの重さ、嫌な感じ、不安、怖さ、硬さ、
それらが身体を支配していました。
もう答えは出ていました。
心は100%ノーと言っているのです。
その時私の思考は、私の感情を睨みつけてこう言いました。
『おまえ、わかってんだろうな。
これをやらなければ、みんなに嫌われる。非常識だと思われる。
自分勝手な嫌なヤツだと思われるぞ。』
私は思考に睨まれて怯えていました。
そして迷っていました。
繰り返しますが、
心は100%ノーと言っているのです。
私を散々脅したあとに、思考は決まってこう言います。
『心にノーという権利は無い。
なぜなら心には価値が無いから。
価値のある人間になりたいなら、
イエスって言えよ。』
そうして私はこれまで、やりたくないことをやってきたのです。
全力でノーと言う心に対して、
思考が無理やりイエスと言わせることが、
癖になっていました。
自分に価値があるなんて思っていないから、
自分が何を感じているか、何を思うかなど、
取るに足らない。
それはあって無いようなもの。
判断基準はいつでも、
自分がどうかではなくて、
みんながどう思うか。
私のような価値の無い人間は、
人の役に立つことでしか、価値を付与できない。
そういう信念をずっと握りしめてきました。
つい先日もそれを選択しそうになりました。
でも私はそのやり取りを、俯瞰して見ることができました。
私は心に従いました。
それは断れないことではないので、
私がノーと言ったことでその後どうなったかと言えば、
ノーと言っていい世界が展開して行きました。
怖いことにはならなかったし、何かが悪化したわけでもありませんでした。
ああ私、ずっとこれをやってきたんだ、とはっきり理解しました。
ノーと言って良かったんだ、最初から。
私にはノーと言う権利があったんだ、本当は。
それが当たり前にできる人にとっては、難しいことではないかも知れません。
私がこれまでそれを選択できなかったのは、
自分でそれを阻んでいたからです。
だけどそうせざるを得ない、人生の環境がありました。
それももう、終わりです。
私は選択の権利が自分の中にあることを思い出し、
見たいものを自分で選べることを知りました。
私はもう、
『心が犠牲になればうまくいく世界』
を生きるのを辞めます。
『わたしが苦しむことが正しい世界』
を生きるのは辞めにします。
心が100%ノーと言っている時は、
ノーでいいんです。