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切迫感に動かされていた話

私は常に異常な眠気を抱えていたので、何かするには切迫感と私は遅れているのだからがんばらねばという気持ちと物理的に遅刻していたり遅れている状況から、自分が何かするために切迫感に追いやられてようやく動けていた。

仕事の日でも2〜3時間朝起きられなくて遅刻してしまう。仕事中も隙があれば目を閉じて寝てしまう。覆いかぶさる抗えない眠気に襲われるなかで、それでも生きていくには切迫感によってやるしか当時の私には術はなかった。

だから、「無理しないでね」もいう言葉が嫌いだった。だって、無理しないと何もできないんだもん。それは朝布団から体を起こすこと、カーテンを開けて外の光を入れること。

朝、起きたら、起きたまま活動すること。

これが私には針の穴に糸を通すくらい、難しいことだった。そもそも起きることもままならず、目を開けて体を起こしてこの場に人間の形を保って存在することに、起きていることに全精力を使っている私に無理しないでできることなどなかった。

寝てしまっているときでさえ、意識はなんとか起きなきゃと起きようとしていた。

書いていて思ったのだけど、こんな状態が当たり前で神経が休まるときなんてないよな…そりゃ疲弊するよな…。

自分が寝たら次にいつ起きるのかがわからないから、1日経っていたりするから眠るのが怖かった。眠くてたまらないのに、眠るのが嫌だった。また遅刻して、人に迷惑をかけ、謝って、自分もその場に居づらくて。

そうやって10代後半の大学時代から、社会人になった20代は切迫感によって間に合ってないけれどなんとか自分を動かして体を運んでいた。

切迫感がないと動けないくらい体も心もつかれているなら、まずやった方がいいことは予定をなくしてひたすら休むことだと今なら思う。だけど、当時の私には自分に休みを与えるというとができなかった。それはお金がないのもそうだけれど、自分の欲求・理想に体が追いついていないのに無理やり自分の欲求を通してしまったからだ。

頭で、体を動かしてしまっていた。

思い返せば、あれは体からのSOSだったんだなって思うことが何度もあった。朝起きられないこともそうだろう。なのに、何度も私は自分の体のSOSを無視してきてしまった。ごめんね、私(;_:)

切迫感じゃなくて、元気なひとはどうやって体を動かしているのだろう。

頭と体を合わせてあげる。体の声を聴く。頭はすぐに暴走して妄想して体を置いていってしまうから注意が必要だ。

私は私と約束したのだ。
もう絶対体を置いていかないと。

だから、体の声を聴きながら、
スモールステップで行くのだ。

往々にして頭の声が強くなってしまうのは、焦っているときが多いと思う。切迫感もそうだ。そして焦っているときは、誰かと比較していることが多いなと気づいた。あのひとはもうあそこにいるのに、とか。他の人と比べているのだ。

比べるなら、過去の自分と。

切迫感で動いているときは、いつも苦しかった。追われている気持ちで息が苦しくて、息が詰まる感じだった。今でも、呼吸が浅くなったり、息が苦しくなったら、そういうことなんだと思う。私にはまだ早いのだ。

隔離された水槽で療養して、9年経って少し回復してきて。じゃあ次は、もう少し広くて、多少他のお魚もいる水槽へ移りましょう。
今はここにいる感じがしている。
多少他のお魚もいるけれど、安全が保たれていて、攻撃的な人はいない。ここに慣れたら、次はもう少し広い水槽に行ってもいいし、無理して行かなくてもいい。

私が行きたい水槽は、もう少し広い水槽なのだけどそこに行くにはまだ早すぎるみたい。

だから、今の水槽でもうしばらく今できることをせっせっと積み重ねていけたらいいのでは。と思っている。

何事もバランスなのだ。
難しいけど。

周りは結婚したり子どもができたり、子どもも二人目だったり。仕事を重ね、やりたいことを実現させていたり。そういうのを目にすると、羨ましいなと思うこともあるけれど。自分だけがいつまでも同じ場所にいて、何も進めていないような気持ちになって落ち込んだりするけれど。

それはその人の人生であって。
私は私の人生を、私なりに生きているのだ。それを忘れないことなのだ。

止まっているように感じてしまうけれど、よく観察してみたら同じ瞬間はないのだし、変化は訪れていて。療養の日々の中でも、私なりに生きてきているのだ。

だから、私は私の人生を生きるのだ。
それでいいのだ。


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