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悪を矮小化すべきではないが矮小なものに悪は芽生える、と思う(2024.9)
こんにちは。お読みいただきありがとうございます。
今回は映画『関心領域』の感想を書いていこうと思います。あんまり考えがまとまらないので箇条書きにて。
映画の内容について
・アウシュヴィッツ強制収容所の所長、ルドルフ・ヘス(ナチ党の副総統とは別人。つづりも違う)とその家族を描いた映画
・収容所の様子は直接描写されず、あくまでそのすぐ隣にあるヘスの自宅の様子が中心
・邸内のいくつかのポイントに固定されたカメラの前で物事が進んでいくことが多い。観客に時間の進行を感じさせるような、ドキュメンタリーや演劇のような印象
・すぐそばで進んでいく収容所の悲劇に気づかないのではなく、あえて目を背けて(時にはむしろそこから利益を得て)幸福な暮らしを営もうとする家族、とまとめると、とりたてて斬新なことは描かれていないように感じる
・とはいえ収容所の所長として直接的に(より効率的に!)虐殺に加担しているルドルフだけでなく、彼の地位や収入に頼って暮らし、さらにユダヤ人から奪った財産を当たり前のように分けあったりしながら、それをあたかも理想の生活のように享受している家族たち(特に妻)に焦点が当てられているのは良かった
・財産を日用品の中に隠していたユダヤ人のことを「あいつら賢いから」と言ったり、以前は隣人として付き合っていたユダヤ人が連行された途端に冷酷なコメントをしたり、手際の悪いお手伝いさんに「夫がその気になればお前の灰を空に撒くこともできるのよ」と言ったり
・観ていてこわいけど、自分がそうなる可能性を考えてもみずに偉そうに彼らを糾弾するのもこわい
・この映画が映画である一番の意味は音の表現だと思う。泣きやまない赤ん坊、収容所の人の声、銃声、焼却炉らしき音。効果音なのか環境音楽的なBGMなのか判別できないような音も。一つひとつはこれ見よがしにこわい音ではないのだが、鑑賞中ずっと不穏な気持ちをかき立てる
・あと、これは意図的なのかどうか分からないが、ルドルフ役のクリスティアン・フリーデルの声の演技が印象的!
・父であり所長という権威的な役で、ドイツ語がその印象に拍車をかけてもおかしくないのに、彼の話しかたは抑制的で、柔らかく優しく静か。そこにかえって引っかかるものがあった
・ヘス家パートの合間に挿入される、収容所の人々のためにリンゴを地面に隠しておく少女のシーン。良心の象徴のように描かれているが、その後ヘス家の外でリンゴを奪い合って暴力沙汰を起こしている収容者の声が聞こえる。極限の状況で人間性が試されるのは迫害を行っている人間だけではないと思う
・映画終盤に突如挿入される、現在のアウシュヴィッツ記念館のカット。うずたかく積み上げられた犠牲者の靴の展示、施設を掃除する職員。その「記念」の意味は今でも常に検討し続けられているだろうか
映画の外で考えたこと
・異様に綺麗でアーティスティックな映像表現で、そのことに違和感や若干の嫌悪感を抱いた
・しかし考えてみればなぜ映像が綺麗ではいけないのだろう。汚く映せばより真実に近づくわけでもないのに
・史実と関係のない、「こう撮りたい」という製作者の狙いや作為のようなものにいやらしさを感じるのではないか(仮説)
・だとするとそもそも史実を映画の題材(嫌な言い方をすると表現の「ネタ」)にすることっていやらしいのではないか。倫理的に突き詰めて考えられたことはあるのだろうか
・とはいえこの映画の内容やパンフレットに掲載されたインタビューなどを見る限り、『関心領域』という作品自体が非倫理的だとか不誠実だとは感じない
・パンフレットの田野大輔氏エッセイ、「悪の凡庸さ」論はホロコーストの矮小化につながるという主張
・納得はするけど、非人道的な行為を特殊化しすぎても自分の行いと関連づけて考えられなくなるのではないかと危惧する
・「大量殺戮者も普通の人間にすぎない」が誤りなのは確かだが、普通の人間は何かのきっかけやエクスキューズがあればその普通さを維持するために大量殺戮を行ったり助長したり見て見ぬ振りしたりし得る、というのがこの映画に描かれていたのでは?
・多分、その「何かのきっかけ」こそが大量殺戮者と自分を今のところ区別できる一番大きい要素で、だからいつでも気をつけてなきゃいけないのだと思う