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Route66に憧れた、13歳の僕
僕は現在、アメリカ人妻との国際結婚を経てアメリカで生活している。妻とは日本で出会い結婚したが、30代を迎えてから北米に移り住むまで、僕は一度もアメリカ合衆国を訪れた事はなかった。
欧州大陸某国や中国本土など、複数の国や地域での生活経験はあったものの、アメリカ大陸は僕にとって足を踏み入れたことのない未知の土地であった。
そうした経緯から、僕は以前Noteに投稿した文章の中で、「アメリカ生活に関する知識といえば、シンプソンズやマルコム・イン・ザ・ミドルから得られる以上のものは何一つ持ち合わせていなかった。」と書いたことがある。しかしこれが誤りであることに最近気がついた。
自分でもすっかり忘れてしまっていたが、11歳から13歳までの僕は、今の僕からは想像もできないほどのアメリカかぶれだったのだ。
アメリカンレトロとの出会い・憧れ
きっかけは確か、11歳の時に家族旅行で出かけた函館の雑貨店で手に入れた、Route 66のブリキ看板である。自室に飾るための簡単な雑貨や小物を探していた際、偶然ナンバープレート型のRoute 66のブリキ看板を手に取ったのだ。Route 66と言えば、イリノイ州からカリフォルニア州までを走る、かつてアメリカに存在した国道のことで、昔の映画やドラマでお馴染みの存在であり、今現在も世界中から観光客を集めている。
英語がほとんど分からなかった11歳の僕でも、さすがに「Route 66」は読むことができ、そして白黒のシンプルなデザインに魅了されてすぐに購入したことを覚えている。
それから僕は、オンラインショッピングで50年代や60年代のアメリカ雑貨を探してみたり、少し遠出した先で見かけた家具屋や雑貨屋にそれらしいものがあれば、手にとって物欲しそうに眺めていた。(子供の経済力では、大半の物は購入することができなかった。)
また、当時はアメリカの映画やドラマを無作為に観るのが日課となっていた。両親がケーブルテレビを契約していたため、Foxの映画チャンネルなどに回せば、観るものには困らなかったのだ。
知らない国の知らない言葉、広大な土地に余裕を持って敷き詰められたアスファルトのフリーウェイ、その上を巨大なピックアップトラックが颯爽する姿、全てが僕にとって新しいものであり、心を惹きつけてやまなかった。
知らない土地や知らない言葉の存在は、当時の僕にとって、大きな逃避先が存在することを指し示す重大なサインであり、日々の現実から目を逸らすための大事な存在であった。
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引越し・転校後の環境に馴染めなかった僕
前述の函館旅行の半年前、実は僕は首都圏郊外からとある地方都市へ引っ越していた。引越し先は母の実家がある街で、夏休みの帰省シーズン恒例の「おじいちゃん・おばあちゃん」の家がある土地だ。土地勘ゼロの街では無かったが、夏休みに祖父母の家へ帰省することと、実際に住むのでは全くもって勝手が違った。
この引越しで、僕は大いに苦労することになる。習慣や文化、方言に至るまで異なる事ばかりで、毎日戸惑ってばかりだった。
例えば転校前に住んでいたエリアでは、同じ幼稚園に通っていたA君はお受験を経て、某有名私大附属の小学校に通い始め、僕と同じ公立小学校に通っていた同級生の何人かは、中学受験の準備を着々と進めていた。
けれども引越し先の街では、お受験も中学受験も存在しなかった。大半の子たちは同じ幼稚園を卒園後、そのまま同じ小学校へ進み、そして全く同じ顔ぶれの同級生が、同じ公立中学校(卒業した小学校の真隣に位置する)へ進学するのが当たり前の世界であった。
イオンモール(厳密にはただのジャスコ)へ週末に出かけるのが彼らの最大の楽しみで、ジャスコのことをデパートだと信じて疑わない様子だった。小田急線も京王線も存在せず、JRの駅すら徒歩圏内には存在しなかった。唯一の交通手段は自家用車か、1時間に1本の頼りない市営バスだけだった。
そんな土地へある日、標準語を話す転校生がやってくる。どうやら「ケイオウセン」という未知の乗り物に乗ったことがあるらしい。電車だけどJRじゃ無いらしいぜ。
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そんな話を彼らがしていたかどうかは定かで無いが、当時の僕と彼らの間には、同じ国とは思えないほどの大きな隔たりが確かにあった。ネット上では定期的に、出身地ガチャという言葉が流行る。すなわち首都圏や京阪神出身者はそれだけで勝ち組だとする言説だが、転校した当時の僕は、同じ日本国内であっても物的豊かさには大きな地域差があることを、身を持って痛感することとなった。
転校してからの僕は、週末にジャスコへ足繁く通うことに楽しみを見出す事はできなかったし、クラスメイトともそこまで仲良くなることもなかった。特に最初の頃は、同じタイミングで都会から引っ越して来た別の転校生と愚痴を言いながら遊んでばかりだった。要するに、「標準語の嫌味なヤツ」でしかなかったのだ。
そうした中、家族旅行で訪れた函館の雑貨店にて、偶然「Route 66」と出会うことになった。旅行から戻って来てからは、アメリカの映画やドラマをひたすら消費する毎日が始まった。アメリカという国の存在は、自分が所属できる場所が外の世界に存在し、イオンモール(ただのジャスコ)と家の往復から解放してくれる希望の光であった。Route66とは、当時の僕にとっては単なる廃止された旧国道にとどまらない、それ以上の存在となったのだ。
Route 66を、いつの日か旅してみせる。
パスポートすら持っておらず、車の免許が取得できる年齢にも遠く達していなかった僕は、アメリカに思いを馳せることで日常から目を背けるようになった。そうして僕は13歳に至るまで、米国旧国道66号線でのロードトリップに逃避することとなった。
「アメリカ」を必要としなくなった日
転校してから2年近くが経過した。この間、僕はオールディーズのアメリカ音楽を聞き始め、そこからダリル・ホール&ジョン・オーツを聴いたり、さらにはイギリスのロックバンドにも興味が広がっていった。今振り返ってみると、音楽を通じて興味の対象がアメリカから英国にも派生したことは、自身の環境の変化を暗示させるものだったのかもしれない。
中学へ進学すると、強固に築かれていた転校先の既存の交友関係が、部活動という単位で再編される一大イベントが発生した。
これまで仲の良かったグループが、部活単位で一旦解体・再編成される、これは僕にも所属するコミュニティを獲得するチャンスが生まれたことを意味する。実際に、入部した運動部が僕の所属できるコミュニティとなってくれた。部活の後に誰かの家でゲームをしたり、あるいは一緒にテスト勉強をするなど、中学生としてごく健全な生活を送るようになった。
これと同時期に、僕の両親はケーブルテレビから映画関連のチャンネルを解約した。解約した理由は憶えていないが、どちらにしても僕には関係のないことだった。部活で映画やドラマを観る時間は無かったし、友達と時間を過ごす方が楽しかったからだ。
やがて13歳の僕は、気がつけば「標準語の嫌味な転校生」ではなくなった。相変わらずイオンモール(というかただのジャスコ)が楽しいとは到底思えなかったが、そうした感情を表に出す程子供ではなくなった。代わりに僕は、同級生と楽しそうにイオンモールへ向かうことで、周囲への同化と調和を図ったのだ。自分の立ち位置を理解し、それを確保する。この時を境にして、僕は子供から大人となった。空想の世界へ逃げる代わりに、いま手に入るもので居場所を作る処世術を身につけた。そうして僕は、逃避先としてのアメリカを必要としなくなったのだ。米国旧国道66号線での長きに渡るロードトリップは、このようにして終焉を迎えた。
やがてRoute 66は、文字どおり廃止された国道として、僕の中で気にも留めない存在となった。つい数日前に中学時代のことがふと蘇るまで、全く思い出せなかったほどだ。
海外志向が芽生える遠因
こうした一方で、中学で部活を始めてから引退するまで、実は所属する部活コミュニティ内である種の距離感を憶えていたことも事実だ。自分にとって部活の友人が最も仲の良い友人である一方で、彼らには幼稚園時代からの、家族ぐるみで仲の良い友人がいる。空想の旧国道から現実の世界に戻った後は、一抹の寂しさが常についてまわることとなった。
とりわけ部活引退後は、各々の優先順位が元のコミュニティに戻ったことで、祭りの後さながら、あたかも一人ぼっちになったかのような気持ちになった。当時の距離感の記憶は、一生忘れることはないだろう。
こうした経験は、今現在の僕の人間関係の築き方だったり、人との付き合い方に大きく影響していると強く感じる。事実、既存の交友関係に影響されないコミュニティを好むようになり、これは大学入学後に海外志向、あるいは「海外渡航癖」が身に付く遠因にもなった。中学卒業後に高校進学した時も、都内で大学生だった時も、地元らしい地元が無い僕は、最小単位のコミュニティを持たずに無所属感を憶えて仕方がなかったが、少なくとも大学時代に海外を旅していた時は楽だった。海外で外国人として生活し、同じ根無草の外国人同士でゼロからコミュニティを築き上げる。そのコミュニティは確かに刹那的なものだった。けれども前述の距離感を憶えている僕にとって、非常に公平な立場でいられると感じ、居心地が大変良かった。
今現在はどうだろう。僕は30代で配偶者がいる立場だ。大半の同世代と同じように、家族を最優先コミュニティと位置付けて生きるようになり、友人関係は、良くも悪くも二の次、三の次となっている。交友関係で深く落ち込む時間の余裕は無くなり、友人たちとの関係であれこれ悩む、心の繊細さも失ってしまった。
20代半ばまでは一種の生きづらさがついて回って来たが、30歳を超えるとそれもなくなった。今の僕は、再びRoute 66を必要とすることも、どこか別の「旧国道」に思いを馳せることもないだろう。
「若い頃の悩みというのは、30代になれば大抵の場合無くなって生きやすくなる。」
20代の頃に読んだ本か何かで、そんなことが書かれていたことを思い出す。どの本でそんなことを読んだか具体的には思い出せない。けれども30代となった今、当時目にした言葉は紛れもない真実だったとつくづく感じる。なぜなら今の僕は、Route 66を旅しようとは全く思わないのだから。