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Y:73 歩み寄りの不公平感-ある・ないの中間地点-

2022.12.9


中間地点に歩み寄る

AさんとBさんがお互い離れた所に住んでいて、会いましょうとなった。お互い出不精なので相手に来てほしいと思っている。
AさんとBさんの希望を同時に満たすことはできない。こんなとき私たちが当事者ならどうするだろうか。じゃんけんをして、負けた方が相手を訪問する、複数回会うのであれば、今回はAさんの所、次回はBさんの所でとなるかもしれない。

AさんとBさんがそこまで親しいわけでもない場合、じゃんけんで決めるのは微妙かもしれない。そうすると、お互いの家の中間地点で会いましょうということになりそうだ。AさんもBさんも本意ではないが、お互いの家まで行くよりは負担が少ない。これは、お互いが自分の希望を妥協し「歩み寄った」ことになる。

二者(もしくはそれ以上)の希望が一致しない時、私たちはよく「歩み寄る」ことで解決しようとする。歩み寄る時に思い浮かぶのは「中間地点」の発想だ。上の例で言うなら、Aさんの家とBさんの家の中間地点。中間地点までお互い行くという同程度の負担をすることで公平感を持つことができそうだ。

お酒を飲まない人と毎日ビールを2本飲む人の中間点

例を変えて考えてみたい。二人いる。お酒が嫌いで飲まない人と、お酒が好きで毎日2本はビールを飲む人が集まりご飯を食べることになった。片や食事にお酒はいらない人、片やみんなでお酒を飲むのが好きな人。この場合の歩み寄りの中間点はどこにあるのだろうか。上の例をなぞるとすれば

・飲まない人はがまんして1本だけ飲み、飲む人はその日は1本で我慢するというところだろうか。

しかし、この場合、お互いが同程度の負担なのだろうか。私の感覚だと飲まない人の負担の方が飲む人に比べ大きいのではないかと思う。
かといって、ここで、2人とも全く飲まないということになれば、一方の条件を丸呑みした形になり、公平ではなさそうだ。
お酒を飲む・飲まないの例のように、中間地点の歩み寄りが実は片方にとってはそれほど公平感がない事象というのがありそうだ。

・喫煙者と非喫煙者
・静かな雰囲気が好きな人と、賑やかな雰囲気が好きな人
・敏感な人と鈍感な人

少し話がずれるが、私はなんとなく概念的に「ある(有)」と「ない(無)」は一対一というか同じ大きさのように考えていたのだけど、よくよく考えてみると、「ある」の方がかなり広大な概念というか、数字で考えると「0(無)」は一つだけど、それ以外はすべて有で両者は全く個数(←適切な言葉ではない)が違う。何を今更的なことなのだろうけど、つい先日、そのことに気がついた。

白と黒を混ぜると

歩み寄りの不公平感をもう少しわかりやすく表現できないかと思い、考えたのが「白」と「黒」の絵の具を混ぜるということだ。
これは実際に試してもいないし、誰にも聞いてないので、そんなことはないかもしれないが、黒を0、白を10で混ぜ合わせると当然、それは「白」だ。それを黒か白かと聞かれたら「白」と答えるだろう。この調子で、黒1白9、黒2白8…と続けていくとする。

黒5白5の色(中間地点)を見て、「黒か白か」と聞かれたら、多くの人は「黒」と答えるのではないかと思う。
これを私は言いたいのだ(笑)この時に、100人に聞いてみて、50人が黒と思い、50人が白と思うなら、納得いくのだけど、おそらく「その灰色って黒に近いよね」ってなると思うのだ。なんなら黒3白7でも、それは黒という人もいると思う。つまり、一見、中間地点での歩み寄りに見えても、実質は片方に有利とか、負担度が大きく異なるということが、日常には多くある気がする。

中間地点の難しさ

話を大きくしてまとめると、多様性の尊重とかっていかに「歩み寄る」かにかかっている部分もあると思う。同時にお互いの希望を満たせない時、中間地点を探るという試みがされると思うのだが、客観的(数的)に中間を取るのは一見、公平な感じがして納得しやすい(しなくてはいけなくなる)。ただ、現実世界では白と黒を混ぜた時のように、中間地点が本当の意味での中間ではないことも多くありそうだ。
じゃあ、どうすればというとこまで書けると、建設的でよい締めになりそうだが、今のところ、私にはそれはよくわからない。



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駄々こね太/ Essayist
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