もしも命が描けたら
月人が幸せにしたかったのは、星子でもない、虹子でもない、もちろん自分自身でもない。
月人が手に入れたかったのは大切な人の幸せ。
彼の願いは過去の「おかあさん」を、幸せにすることだったのではないか。
田中圭主演、鈴木おさむ演出の「もしも命が描けたら」観てきました。
ネタバレもガンガンしていくのでご注意ください。
まず、言いたいのは、この物語は、母の幸せを願う愛の物語だったのではないかということ。
いきなりネタバレしてしまうが、虹子が母親であったことは、お芝居後半、月人と虹子の「お子さんは…」の会話で分かる。
月人が虹子に惹かれながらも、一線を越えなかったこと。虹子が月人の名前を聞いた時の動揺からも想像できる。
何より初めて呼ぶ「月人」の名前に、母としての愛情をありありと感じたのは私だけではあるまい。
女優、小島聖の、このたった一言の演技がすごい。
田中圭演じる、月人の演じ分けもすごい。
星子と過ごした街では、30代・等身大でありながら臆病な大人の男だった。
だが、虹子と過ごした街での月人は、実年齢がわからなくなるくらい幼い。
肩の荷を一度おろし、死という目的を見つけた月人は潔くまっすぐだ。何も取り繕わないし、不必要に隠さない。それが幼さの理由かと思っていたが、きっとそれだけではない
それは虹子との関係性。
虹子との水族館での出会いも、男女というより、親子のそれであったのだと、今なら分かる。
大人の女性と、無垢な子ども。
だからこそ2人が恋愛関係に発展しかけることに違和感を感じずにはいられなかった。
虹子が与える安心感の下、月人は子供らしく、ありのままの自分らしく振る舞うことができたに違いない。
星子と過ごした時間、虹子の前での月人。その微妙な差異を、意識的にか無意識的にかはわからないが、体現した田中圭がすごい。
母子家庭で育った役者・田中圭にも思うところはあったであろう。
リンクしてしまうその過去を、役者だからと言って、当人に突きつけてしまう作家の鈴木おさむもすごい。
すごいというかむごい。
それは鈴木おさむと田中圭の信頼関係が為せる技なのだろう。
月人は幼い頃から苦労する母親を見てきた。
涙も見せない母親を、月人はずっと幸せにしたかったのではないだろうか。
母の前では絵を描くことを隠す、いい子の自分ではなく、ありのままの自分が、お母さんを幸せにしたかったのではないか。
星子の死はきっかけに過ぎなかった。
月人がずっと思い描いていたのは母親の笑顔だった。
星子の笑顔を描けなかったこと。
母親の望む、大切な人の笑顔、それは陽介の元気な笑顔を描いたことがそれを証明している。
月人の心を開き、彼を成長させ、自身と向き合うきっかけとなった星子。
彼女もまた、月人にとってはもう1人の母親だったのだろう。
最後、虹子のために絵を描ききった月人はもう叫ばなかった。星子の名前を。
それは、月人が母親を卒業し、1人の人間として自立したことを意味する。光の中へ飛び込んでいく月人にはためらいはない。
舞台の妙もすごい。
舞台上に浮かぶ月は、客入れの時には仄暗い満月だったが、お芝居が始まった瞬間、存在感を放ち輝く三日月に変わる。
照明の照らし方、映像の投影の仕方で、満月に三日月に、水面に、森に、都会の夜に、ゴッホの絵に七変化する。
ホリゾン幕の現代版でありながら、モチーフとして舞台上にあり続ける演出がさすがとしか言いようがない。
一方、舞台も円形にくり抜かれ、それはさながら月の影のようだった。
大きな石が無造作に転がった舞台は月のクレーターだ。どこか静かな、孤独を感じさせる。冒頭の三日月と月人の不思議な出会いのシーンに立体感を与えていた。
ラストシーン、今まで舞台をくるくると歩きまわっていた三日月に替わって、月人が舞台を歩き始めたこと。三日月=月人自身であったことが、ここで表されている。
音楽も想像以上だった。
YOASOBIのテーマ曲は舞台を盛り上げるBGMにもなるし、時には役者の前に出て、ナレーションより雄弁に物語を語る。
正攻法なら、音楽を聴かせるシーンなら完全暗転するし、聴かせるパートも厳選し、かなり短く流す。
それが今回は、三日月だけを舞台に浮かべ、ほぼまるまる一曲、音楽だけを流す。
一見動きがない、演劇としては破綻しているとも言えるその時間に、耐えられるだけの音楽の力。そしてそれを決断した演出。演出家からYOASOBIへの敬意を感じる。
思えば円形の月を部分的に照らして三日月に見せるのも、スナックの常連客や陽介のように、人には見えていない影の部分、それぞれの人生があることの象徴だったのではないか。
三日月を愛していた月人は、当人が見せない闇の部分も含めて、その人を見ていたのだろう。むしろ闇の方をより見ていたのかもしれない。
そして円形の舞台は繰り返しを、輪廻転生、命が巡ることを想起させる。舞台の縁をくるくると歩きまわる「三日月」もその象徴のひとつだ。
印象的だったのは月人のジャンプ。
三日月に力を与えられ、死ぬために生きることを選んだ月人は消えるように飛ぶ。その顔に表情はない。
だがラストシーンの月人はどうだろう。
右手を掲げ、自ら光の中へ「飛び込んで」いくようだった。それが彼の成長のすべてを物語っている気がする。
彼が自らの手で掴んだもの、それは、大切な人を幸せにできた、その喜びに違いないのだから。
3人芝居であり、モノローグも多い中、これだけ観客を惹きつけ、スタンディングオベーションもかっさらった圧巻の舞台。役者3人の力、音楽の、脚本の力が、全力で物語へと引き込んでくれた。悲しくて美しくてあたたかい、愛の物語だった。
役者田中圭をなめていたのかもしれない。
彼は舞台の上に生きていた。
悲しみも喜びもすべて曝け出して生きるその姿は、田中圭ではなく、愛を求める月人そのものだった。
月人という儚くも優しい青年が、目の前で生き抜いたことを、私達は目撃したのだ。