誰か一人が僕のコーチになってくれるだけでやりたいことの継続が叶うと思った話。
展示会が明日で終わりを迎える。その前に話しておきたいことがあるとおもって文を書き始めています。
どうして僕たちはやりたくないことを継続することは我慢や忍耐の美徳としてしまう傾向があるのに、やりたいことを継続することは苦手になってしまうのでしょうか。
展示会では多くの知らない人が会場に入ってくる。時々前に来てくださった方や知り合いがきてくれる。それはとても嬉しいことだとおもう。
ずっとこのままこの空間に居たいなぁと思うから次もまた展示会場に在廊することがいいと思うわけです。
だから、この感覚を信じて継続するようにしてみようと思うのです。
あなたの絵は素晴らしい
あなたはすごい集中力をお持ちだ
あなたは才能とセンスの塊だ
あなたは群を抜いてる
あなたに憧れている
あなたを目標にしている
こんなことを次々と吸収して染み渡らせると次の行動力と集中力に繋がるわけなのです。
いや、もちろん絵に関しては無意味でも続けてることかもしれません。ちょっとした排泄だとも言える。(この表現はありきたりだけど)
やりたくないことは毎朝起きて必死になって身を粉にしても続けられるのに、どうしてやりたいことはそれをしてやれないのか。
人は自分をコーチするのは苦手なのかも。
というか、ボクがそれだ。
自分を自分自身でコーチするのが苦手だから、すぐに悩んで堂々巡りして落ち込み苦しくなる。でも、それはやりたいことで起こっていることだったら悪いことじゃないような気もする。
絵を描いてると自分の精神的な分析を俯瞰で見ることができて心地いい。ノートを描くこともそうかもしれない。俯瞰で思考整理を眺めて自分が自分のコーチをする時間をやるわけです。
分析をすることはできるけど、自分のこととなると難しい。だから、やりたいことを続けることはなかなか苦手なままなのです。
つまり、自分のやりたいことを実行するときは自分の主観が強い。やりたいことを客観的に見ればいいのについつい自分の視点で考えすぎてしまう。
仕事をやりたくないのに続けられるのは誰かの監視があるからかもしれない。そして、上司や先輩やマニュアルによって客観的な評価をされコーチされてるからかもしれない。苦しくてもコーチされてるからなんとかヒントを得てやっていけてしまうのだ。でもどっと疲れてしまって苦しくなる。眠れなくなる。燃え尽きたような気持ちになる。孤独を感じる。
でもまた起きてやりたいことなのに継続してしまう。誰かのためになってるから良いと思えるからそれはそれで精神的な栄養なのかもしれないが…。
やりたいことを誰かに客観的に見てもらえればいいのかもしれない。つまり、自分がだめならたった一人でもやりたいことを監視してくれる仲間とか応援者とかパトロンが居ればいいのかもしれない。
本当は、毎月2〜3通のファンレターや応援メッセージが届くような環境になれば永遠続けられるのかもしれない。だって、やりたいことに応援が入るのだから。途中でその一人の応援者が離れても誰か別の支援者が現れると信じるしかない。
日本だけでも、誰かは自分のことを見てくれている。
やりたいことを続けることは難しいように思える。だけど、やりたくないことを続ける時のように少数のファンからコーチされて生きていけばいいのかもしれないと思う。
明日も誰かに出会うだろうと思う。
楽しみだ。嬉しい。