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技術は「描きながら考える」ことで向上するが、自分を半分破壊し、残りの半分で維持することは忘れたくない。/336日目

2020.6.20.土 #336日目

「描きながら考える」
よくあることで、日々そういうトレーニングを積むことで、技術が上達することがあります。


というのも、
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』
(著者:千葉雅也)

という本の中でこんなことが書かれています。

- 書く技術は、「書くことで考える」習慣によって向上するだろう。自由連想的に書いていくフリーライティングを勧めたい。(221ページ)

文章であれば、書きながら。
絵画であれば、描きながら。

自由連想的に描いていく段階があって、それを少しずつ少しずつ専門的に構造化させていくことにつなげていけばいいのだなぁと思うわけです。

自由連想的にっていうと難しいですが、
「お絵かき」から「絵画」という進化を遂げるまでには、それなりに描きながら考えるという時間が必要になることが多いのです。

「描きながら考える」というのは、昔から必然的にやってきたことだと思います。

幼稚園の頃には、らくがき。
小学校の頃には、自由帳や図画工作。
中学・高校には、デッサンや美術。
大学に行けば、建築デザイン。

見た目は、だんだんと専門的にはなっているが、やっていることは「描きながら考える」ということに違いないのです。

その中で培った技術は、沢山ある。

全体図の捉え方、明暗の描き方、キャラクターの描き方、人物の描き方、道具の使い方、彩色の仕方や方法など。

探せばありとあらゆるものを手に入れてきたわけだ。

しかし、それとは別で失っているものもあるかもしれないことに気がつく。

"自由連想的に描くこと"なのです。

お母さんの絵で例えるなら、
"うまく"描くことができるようになると、幼稚園のあの頃描いていた顔から手足が生えたお母さんは二度と描けないのです。

これが、学ぶことで失うものであることは受け入れておかなければならないのです。

描きながら考えることで、確実にとある方面からみた技術は向上することは間違いないのでしょう。

だけどそれは、また別のある方面から見れば、「凝り固まった拘り」であったりもする。

拘りは、ある意味自分のキャラクターを確固たるものにしていくのです。それは、このキャラ経済と呼ばれる時代を乗り切るための鍵にはなるでしょう。

「顔から手足を生やした母親を描くことをやめる」ことは、同時に「制限をかける」ことで、その人の作品により一層の拘りや個性、つまりキャラクター性を持たせることになるわけですから。

先程紹介した本にも、次ように書かれています。

- 勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。だが人はおそらく、変身を恐れるから勉強を恐れている。(表紙付属の帯より)


これを受けて、僕の気持ちをまとめてみる。

「描きながら考える」
これは、確実に技術の向上に貢献してくれるもの。ただ、そもそも描く以前に仕入れた知識や文献、感性や価値観は、時に元にいた自分を変化させることに他ならない。

同時に、描きながら考えることで、消えてしまうはずの「自由連想的に描ける自分」を半分維持していくことは、僕にとって重要なことだと思うと言いたかった。

技術を高めたいからといって、完全に以前の自分を捨て去ることは難しい。

絵を描く際には「自由連想的に描きながら考える」ということをやって、過去の自分を半分くらい破壊し、消えた半分で新しい自分をつくって進み続けたいのです。


あの日描いていた絵はもう描けない。
だけど、今しか描けない絵は今しか描けない。

だから、描きながら考える習慣を持っておくことはとても大切なのです。

この日記を毎日書いているのもソレのトレーニングであるわけだ。


では、作業に戻ります。
ばいばーい。


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