前回の記事の続き。このところも松竹信幸氏や紙屋高雪(神谷貴行)氏の除名騒動があって、『日本共産党の研究』(1978年刊)の頃に似た空気が生まれているが、著者の立花隆氏はなぜそうなるのかの理由をあっけらかんと、ズバリ書いている。
もちろん時代ゆえの制約もあり、立花氏はスターリン本人を「劣勢な知力」として描いているが、これは正しくない。冷酷なサイコパスだったスターリンは、裏面では第一級のインテリで、ブルガーコフ(作家)やショスタコービッチ(音楽家)についてはその芸術性を見抜き、お目こぼししていたとする評価が今日では多くなった。
とはいえ、そうしたボスに阿諛追従を連ねる官僚主義者――「スターリニスト」の描写としては、立花の記述はいまも正しい。で、読めばわかるとおり、同じ構図はソ連や日本の共産党だけではなくて、あらゆる組織や人間関係にあてはまる。
自宅に居たままフィールドワークするなら、SNSで学者を名乗る人々(いや、実際に大学教授だったりするんだけど)が繰り広げる「レスバ」がおすすめだ。そこでの言い分のほとんどは、
……の類である。立花氏が言うように、こうした「原則、規則、手続きの順守を主張するのに知性は必要ない」。つまり、毎日Twitter(X)に入り浸ってレスバ漬けの大学教員には劣勢な知力しかない、というかそもそも知性なんてないのである。
藁人形叩きだと言われないように、本note の読者にはおなじみの「あの人」の例を出して、令和日本の大学教員が用いるスターリニスト話法の一例を示しておこう。ここで非難されているのは私なのだが、ぜひ立花さんの指摘と見比べながら、熟読玩味してほしい。
だらだら書いてあるが(なんとこれでもごく一部なのである)、要は「お前にも反対意見を述べる自由はあるが、お前の意見は敵側の界隈を有利にした。お前が処分されるべきなのは、反対意見を述べたからではなく、敵の一員だからである」と言っているだけなことがよくわかる。
この人物が私に比べて劣勢な知力しかなく、もっぱら嫉妬心で行動していたことは、私に論破され尽くした後に本人が出した謝罪文(?)で、自ら認めている。たいていのことには動じない私も、最初に読んだ際には、さすがに呆れ果てた。
この人が誰をスターリンだと思って、私の「粛清」を試みる挙に出たかはともあれ、敵に挑むも返り討ちに遭い、かえって味方の利益を損なったスターリニストの最期は哀れである。要は、使えないプロバカートル(意味は前回の記事を参照)だと見なされて、切られるわけですね。
劣勢な知力でも利用可能な「共産党話法」は、一見すると、今すぐ党派に入って確実に仲間を増やせる、誰にでも開かれたフォロワー獲得ツールに映る。しかし、それを振り回した帰結はもれなく惨めだというのが、20世紀のリアル共産党の末路が示す教訓だ。
なお、正しく本稿を読まれた方には自明と思うが、共産党話法にハマるのはサヨクとは限らない。「保守派で現実主義者の自分はそうならない」と自負しつつ、SNSのお友だちづきあいを優先するあまりに党派的な発言を繰り返し、スターリニストと大差なくなってしまう例は無数にある。
立花氏は同じ箇所で、自らも抹殺される未来を予見してブハーリンが述べた、コミンテルン第6回大会(1928年)での発言を引いている。最悪期のソビエト連邦にも似た光景が、21世紀の日本のSNSやマスメディアで繰り広げられることの意味を、私たちはいま、省みるときが来ている。
(ヘッダーは、みすず書房の本の表紙より。史実をもとに翻案した、逢坂剛さんの小説『クリヴィツキー症候群』がすごく好きでした)