震災の記憶と『ゼロの焦点』
本日1/26(金)20:00~より、論壇チャンネル「ことのは」のYouTube にて、私のインタビュー動画の前編を配信します。約30分で、公開後1週間はどなたでも無料(その後は有料会員のみ)。後編は来週に配信の予定です。
急ぎ追記(1月26日 18:00)
当初のリンク先にエラーがあったため、正しいものに差し替えました。
無料動画の中身をそのままここに書くと、見る人がいなくなってしまうので、関連するエッセイを寄せます。視聴の前にでも、後にでも、あるいは単体でもお楽しみいただけるなら幸いです。
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歴史を正しく覚えていることは、むずかしい。
たとえば長く忘れられてきた2011年3月11日の記憶は、本年元日の能登での震災により甦った。しかしその「思い出し方」に関しては、適切とは思えないものばかりが目立つのが現状だ。
3.11の東日本大震災は原発事故を伴ったため、①放射能でもう人は住めないといったデマを抑えるために、「とりあえず現地に行く」こと自体が支援のメッセージたり得た。また②「被災地」そのものがきわめて広大で、交通の寸断があっても、使用するルートには無数の選択肢があった。
今回の能登半島地震では、①②ともに条件が異なる。幸いにも原発事故は起きていないし、峻険な地形のために激震地へのルートは著しく限られており、自衛隊ですら容易に救助隊を展開できない状態にある(1月6日の防衛大臣会見を参照)。
それにもかかわらず「地震と津波」という表面的な類似に基づき、発生直後の混乱期から2011年と同様の「現地入り」を試みては炎上する識者が続出した。彼らは過去を思い出してはいるのだが、しかしその思い出し方が「あるべき歴史」からかけ離れたものになっているのだ。
松本清張『ゼロの焦点』(1959年)の、主たる舞台は石川県。終幕、容疑者の自殺を止めようと、元日に主人公が車を駆るシーンの描写にはこうある。
今回の被災により全旅館が休業する和倉温泉から福浦へのルートは、能登半島の中心部を横断する。最大の激震地となった奥能登は、さらなる山間の道を行く半島の北端だ。陸路の交通がどれほど容易でないか、常識があれば想像がつこう(たとえば『中日新聞』作成の被害状況地図を参照)。
そして、いま震災に際して清張の同作を引くのは、単に舞台が重なるからでも、また昨年イベントで採り上げる機会があったからでもない。
そもそも歴史は、「正しく記憶」できるのか。作中時間を年末年始に設定して、その問いを探求することが、『ゼロの焦点』の主題だからである。
先に述べたが、主人公が容疑者を追うのは元日だ。車中でハイヤーの運転手がラジオを入れると、「男性と女性の歌手が交互にうたった。それも、一人ひとり、歌手が代わっている」番組が流れる。うたっているのは東京だが、地元の放送局で中継したものとも説明される。
清張がここで紅白歌合戦を想定したのかどうかは、気になるもののまだわかっていない。確かに1953年の第3回まで、「紅白」は大晦日ではなく年明け後に放送されていたが、作品の舞台設定は50年代の末だと思われる。
だけど、そうした「実証的」な考証は、別にどっちでもいい。
占領の最末期だった1951年に始まった「紅白」が、戦後の男女同権を象徴するものとしても受け入れられたことは明らかだろう。しかし『ゼロの焦点』で清張が目指したのは、そうした形で公には祝福されえない、米軍の占領下で日本人女性が体験した屈辱を弔うことだった。
過去を安易に思い出すとき、人はしばしば評価をまちがえる。ずっと忘れてきた歴史が急に意識に上った際には、むしろ「この思い出し方でほんとうにいいのか?」と、一拍置いて再考する余裕がほしい。
人気推理作家として出版界に君臨した松本清張は、昭和の日本で屈指の「行動する言論人」でもあった。1968年には、米軍による空爆が続く北ベトナムにまで足を運んでいる(『ハノイで見たこと』として刊行)。
しかし元日に起きた能登での震災に際して、清張が教えてくれるのはむしろ「適切に思い出すこと」の難しさだ。その姿勢は令和の独善的な動画配信者やSNSユーザーによる、思慮の浅い歴史のつまみ食いとは対極にある。
(ヘッダー写真のうちカラー地図の部分は、帝国書院『地図で読む松本清張』より)
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