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批評家・福田和也氏を悼む

近年のポリコレ批評に苦言を呈する記事を出したその日に、福田和也氏の訃報が飛び込んで「うぉっ!?」と戸惑ってしまった。1960年生まれで、享年63歳。なによりもまず、ご冥福をお祈りする。

「右翼でファシスト」を名乗りながら、最左翼の思想誌だった『批評空間』にもよく出ていた。専攻はフランス文学だが、日本史・日本文学はむろん、政治からグルメまでなんでも論じた。「専門家」を看板にしつつ党派的に振る舞う学者ばかりが目立つ昨今、なにを思われていただろうか。

とは言え「悼む」とか書いちゃったけど、個人的に影響はほぼ受けていない。文芸誌から一般誌まで、福田さんがいちばん書きまくった1990年代に大学に入った世代のくせに、そうした雑誌を当時は読まなかったからだ。

覚えているのは、SFCに進学した友人が「オリエンテーション(?)で福田和也のクラスに当たると、めちゃ奢ってもらえて凄いらしい」と言っていたこと。2000年頃に「逆漱石現象」(文学で売れた後に大学に勤める)なる用語を耳にして、福田さんとかを指すのかなと思ったことくらいだ。

ところが不思議なもので、妙に福田和也という人が気になる時期がやってきた。なにを隠そう、自分がうつで大学を辞めた後である。

病気になる前、最後に研究したのが江藤淳だったので、回復してからは江藤の書いたものを折に触れ読んでいた。そうすると、「健康」だったときの読書よりもよく、彼の書くものがすーっと入ってきたりする(実際に江藤自身、躁うつの激しい人だったと評する向きもある)。

それなら江藤が文壇で後事を託し、SFCのポストも譲ったとされる福田さんとはどんな人かなと、興味が湧いたわけだ。

なので多くは読んでないけど、初期の2作品を文庫で合本にした『近代の拘束、日本の宿命』は、すごくいいなと思った。政策の提言と、福田さん自身の個人史とが、日本近代史という文脈を置くことでひとつに繋がっている。逆に世評の高い『日本の家郷』は、「俺の博覧強記を見ろ!」といった衒学性を感じてしまって、自分にはダメだった。

先日、ゲンロンカフェで共演した酒井信さんなど、病気の後で仕事をご一緒する人に、なぜか福田さんの関係者が多いのも、奇妙な縁である。

なにせ一世を風靡した人だから、当然に拙著『平成史』にも出てくる。こっそりバラすと、色んな言論人が出てくるこの本、なるべく自分(與那覇)にとってその人の「よかったところ」と「イマイチなところ」の両方が、伝わるようにと意識して書いている。

歴史というのは後からふり返って綴るので、執筆時の価値観を前提に「こいつ、ダメ」とやっちゃうことはつい起きがちだ。だけどそう書く人だって、やがて自分が歴史に登場する際には、「古くてダメ」な存在になる。あるいはポリコレ的なNo Debateで、存在自体を抹消される。

そんなことを繰り返すだけなら、歴史に意味なんて、あるだろうか。

なので『平成史』の記述のうち、自分にとっては「いまも、いいなぁ」と思う福田和也さんの姿勢に言及した箇所を、引いておきたいと思う。改めて、ご冥福をお祈りします。

そもそも1990~91年に『諸君!』に連載された論壇デビュー作「遥かなる日本ルネサンス」で、福田さんは戦後日本の情報社会論の元祖でもある梅棹忠夫(文化人類学)の機能主義を、こう批判していたはずでした。

「系譜論」から「機能論」へと転換することで、〔明治以降の知識人が陥った〕西欧へのコンプレックスを拭い去った梅棹氏は、同時に、日本論という日本への問いから、「日本にたいする特別の執心ぶり」を、つまりはアイデンティティの問いのもつ愛憎と葛藤を消してしまった [1]。

 たとえば近代社会というとき、系譜(=歴史)をたどって思考すると「西洋ではない日本は近代たりえない」という、重いジレンマが発生する。しかし機能主義で考えるなら、舶来の技術を輸入し、西洋近代と同様に日本の社会が動いている(=機能している)なら、もうそれで十分であって、ルーツをたどって煩悶する必要なんてない。

 「文明の生態史観」(1957年)に始まり『知的生産の技術』(69年)にいたる、梅棹流の――戦後の高度成長を肯定する――割りきった発想では「日本人であることの実存が抜け落ちる」と告発してきた〔のが福田和也の批評であった〕。

[1] 福田和也『遥かなる日本ルネサンス』、『近代の拘束、日本の宿命』文春文庫、1998年(原著91年)、60頁。

『平成史』文藝春秋、194-5頁
(強調部分が、福田氏からの引用)

(ヘッダー写真は、安保法制の頃かな? のインタビュー記事より)

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