ウクライナ政治の悲劇: 民主化への道はどう「戦争に」開かれたか
あまり知られていないが、ヘッダーの左の本の著者は私の指導教員である。専門が明治維新史なので、実は私も博士論文は「実証的」な明治史だった(笑)。かつ琉球処分という「領土の併合」を国際関係史の立場で研究したので、ウクライナでいま起きている問題にも関心を持ってきた。
開戦から2か月強の時点で、「はっきり勝ち負けをつける」形で戦争を終えようとする姿勢に懸念を呈したのは、(いちいち書かなかったけど)当時の研究成果を踏まえてのことである。だが絶版になった私のデビュー作なんて、どうせ誰も読んでないから、今回はその話は別にいい。
日本のSNSには、2022年に突如プーチンが発狂し「ロシアの領土を拡大して歴史に名を残そう」としてウクライナに攻め込んだ、と思っている人が多く、そうした無知をよしよし・なでなでして応援団に仕立ててきたのが無責任なセンモンカだが、その話も別にいい。
もっと大事な話をしよう。
あたり前だがロシア・ウクライナの軋轢の原点を探ると、1991年末のソ連邦解体に行きつく(この頃プーチンは、駆け出しの地方政治家にすぎない)。少ない流血で巨大な専制体制が崩壊したことは、西側の世界を驚かせるとともに、喜ばせた。
それを可能にしたプロセスは、日本史でいうと「死者の少ない明治維新」にけっこう似ている。指導教員の本を書評して、本人にそう伝えたら好評だった件は、2021年の春に紹介した。
訳書で『帝国の興亡』が出ている歴史家ドミニク・リーベンのウクライナ戦争観に、注目してきたのもそのためである。彼に従えば、「無血解体」のハッピーエンドに見えた帝国崩壊のプロセスは、実はいまも続いており、30年近く経ってついに火を噴いたのが、2022年の2月だったわけだ。
いったいどこで、誰にとっても望ましい「平和裏な連邦解体から民主化へ」のストーリーは、暗転してしまったのか?
現在、主たる戦場となっているドネツク州は、石炭資源と工業設備に恵まれた豊かな地域だった。なので同地の支配層(オリガルヒや経営者)は、キーウの中央政界に進出することで、独立したウクライナの実権を握ることをめざした。彼らの自意識では、「稼げない」他の地域を養ってやる以上、それが当然、ということになっていた。
「平和裏な民主化」を達成した明治維新でいうと、これは徳川斉昭や松平慶永らの有力な地方支配者(大名)が、幕政への参加を要求し始めた段階に近い。この時点では、いわゆる幕藩体制自体を抜本的に覆す改革は、想定されていなかった。
政治的な弾圧や、それに反発するテロが起きても、まさか国内を二分して「内戦」を始めようとは誰も思わなかった。ところが、各地域で下級藩士が実権を握り出すと、これがいけない。一気に現体制の全否定へと、ドライブがかかる。
ウクライナ東部の有力者が担ぐヤヌコヴィッチ政権が、2014年のユーロマイダン革命で打倒されると、ドンバスの側でも「既存の国家体制の枠内ではもう無理だ」として、急進的な分離派の過激路線が主流となる。ご存じのとおり、ロシアによるクリミア併合が起きたのも、このときである。
しかしプーチンは、2014年にはドンバスへの本格介入に消極的で、現地勢力が企図した「独立」への住民投票にも延期を勧告した。なぜか。
相当数の「親露派」が票田としてウクライナ国内に残り、同国の大統領選で「親露的」な候補を勝たせる状況こそが、プーチンには最も好ましかった。逆にいうと、2022年2月の侵略は「その可能性は消えた」と、彼が見切ったことで始まった。
幕末以降の日本でも、有力者どうしが現体制の内側で実権を分けあおう、とする試みが破れた後は、周知のとおり戊辰戦争という内戦が起きている。その死者数が低くて済んだ――1万4000人弱だが、ほぼ同時代のアメリカ南北戦争は62万人――のは、以下の理由によるであろう。
「シングル・スタンダード」のように全世界に押しつけてよいかは別として、政治の民主化を求める欲求には、普遍的なものがある。だがそれが軍事的な犠牲なくして実るかは、歴史のタイミングと地政学的な環境によって、変わってしまう。
まさに偶然としか呼べない要素によって、成否が左右される。日本の「民主化への道」が、ウクライナのようなルートを辿らなかった理由は、つき詰めて言えばただの運である。
歴史における偶然の役割を知ることは、現状が「こうでなかった可能性」に目を向けるとともに、異なる地域への共感を養う土台になる。「たまたま」自分が恵まれていて、他人が不幸であると認識するのは、支援に踏み出す第一歩だからだ。
対して、あらゆる地域が欧米型の民主主義へと進み、その結束はけっして揺らがず、無限に支援が続くことで「正しい」側が勝利するといった必然の語りによる現状の説明は、ただの嘘である。そんな「ファンタジー史観」に、いくらオタッキーな専門知を乗せようと、なにも実現しない。
まともな歴史感覚抜きに、軍事力という1つのパラメータだけを上げ続けて、課題を解決しようとする発想にこそ躓きの石がある。そうした安易な支援者しか得られなかったことが、ウクライナ政治の最後の悲劇であった。