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「極端主義」の時代: 文学が政治学よりも役に立つとき

前回の記事の補足と、別の出演情報の紹介。先月に続き『創価新報』の10月号で、創価学会青年部長の西方光雄さんと対談しています。今回の(特に前半の)テーマは、いま世界的に見られる「中道政治の衰退」。

穏健な二大政党制の母国イギリスで政権交代したら、過激派が路上で移民排斥を唱えて暴動になり、知性ある民主主義の国フランスでは第一次と第二次の投票で、第一党が「極右→極左」に揺れ動いたこの夏の記憶は、まだ残ってますよね? それを踏まえて、こんな議論をしたりしています。

與那覇 そうした「極端主義」の台頭と一体なのが、「政党政治の個人化」です。政党が有権者の利害や要望を集約し、調整する機能を失い、トップに立つ個人の私兵組織のようになってしまう。SNSでのインフルエンサーとフォロワーの関係と同じで、トランプ元大統領が乗っ取った米国の共和党が典型です。これでは「ボス」の立場だけが絶対視され、多様な意見を反映することはできません。

相対的に政局が安定した日本でも、「政党政治の個人化」に関しては、7月の東京都知事選で似た現象が見られました。

平成の30年間、日本では政治改革四法の制定(1994年)から民主党政権の誕生(2009年)まで、選挙制度の改定によって政治を動かす試みが盛んでした。しかしいま、異なる制度を持つ米英仏でも、共通して「極端主義」の台頭が見られます。制度をいじるだけでは解決し得ない課題が、令和の日本では浮上するだろうと思います。

有料記事ですが、
聖教新聞Webの転載版はこちら
(強調は引用者)

2か所に出てくる「極端主義」(extremism)という表現、最近あんま使わないけど大事だと思うんです。もとは1949年11月の『文藝』に載った、伊藤整の評論「戦後文学の偏向」にインスパイアされまして、ってかまぁパクリかな(笑)。

敗戦からまだ4年で、GHQによる占領の最中ですから、当時の文壇では戦場・貧困・飢餓……のような「極限状況」を舞台に、これが裸の人間の本質だ! みたいな筆致で読者に突きつける実存主義の作風が主流だった。しかし、そこに危うさはないのか? という問いを、伊藤は提起しました。

〔太宰治や椎名麟三などの〕これ等のエキストリミズムは、そのままファナチズムになるとは言われないが、大体ロシアから東にあるものであって、専制政治の反映、または残存的映像である。アメリカでは大体フォオクナアなどの扱っている白人対黒人の存在意識に現われるところのものである。
 (中 略)
他人をも自己をも許しながら破らない生活、つまり宥和的な生活、市民的な生活、悪く言えばキリスト教の暗示する二重的、仮面的な生存を、やむ得ないとする生活。そういうものの上に方法を置かなければ、この日本的エキストリミズムは復活して我々を食ってしまう
 (中 略)
ドストエフスキイとトルストイに対してチェエホフの行ったものが、そういう〔極端主義を抑制する〕意味で近代の開始であった。自然主義者に対して漱石の行ったものがそれであった。

『椎名麟三全集 別巻 研究篇』116-7頁。
この巻、戦後日本の批評集としてもお薦めです

いちばんの極端な状況では「これが真実!」というものを推し立てて、だからそれ以外は中途半端! 偽善! イラナイ! と叫び、さぁこの真理に全面同意しろやゴラァと迫る。そうした欲求を一度は抑え込み、「みんながほどほど」で調和する姿を描かないと近代文学にはならないし、まして民主主義を営むことはできない。

で、伊藤整も挙げてますでしょ、フォークナー(フォオクナア)。いま風に言えば、ロシアのプーチンやアメリカのトランプを支えているのは、近代小説以前の黙示文学みたいな「極端主義」であって、それは日本とも無縁じゃないんですね。

同じものを原理主義(fundametalism)と呼ぶ場合、聖書を絶対視するロシア正教会とか米国南部の福音派とか、コーランの完全実現をめざすイランになら、よく当てはまる。だけど日本とのつながりが、見えなくなっちゃう。だって、日本には原理に当たる聖典とかないっすから(苦笑)。

だから中道に基づく自由な民主主義を壊すものは、「極端主義」と呼んだ方がいい気がするんです。これならいまの日本のように、原理すなわちプリンシプルがないからこそ、折々の話題ごとにいちばん振り切れた選択肢がSNS上の世論で横行しちゃう現象も、しっかり把握できますよね。

……えっ、ご記憶でない? いやだなぁ、ここ5年間に絞っても、

「うおおおおロックダウン! 世界一強硬な感染対策だけが正解!」
「うおおおおオープンレター! 鍵アカでの失言でも解雇に追い込め!」
「うおおおお五輪は中止! 出場する選手まで容赦なくバッシング!」
「うおおおお徹底抗戦! 停戦を口にするのはロシアのスパイと同じだ!」
「うおおおお国葬反対! 追悼する人の気持ちも罵って踏みにじれ!」
「うおおおお解散命令! 問題を起こした宗教に信仰の自由は要らない!」
「うおおおお女子トイレと女湯! LGBT法を成立させて全面開放一択!」

とか、色々あったじゃないですかぁ(満面の笑み)。いやぁ恥ずかしいですねぇ、なにせ集団で署名して「私はそういう前近代的なことをしました」って名前残してる人とか居るのが恥ずかしいすよね。人文学者なのに

よいですか。そら、小説読めないから死ぬとか人殺すって人はあんまいないので、世の中の問題はたしかに文学以外、たとえば感染症医学とか国際政治学の「専門」の範疇で起こります。

しかし、そうした時に文学の側からはどう打ち返せるのか? を考えられる人が、本当の意味で人文学者と呼ばれるに足るのであって、「うおおおおセンモンカに全面追従!」とかしてた人は、端的に要らないのですよ。そうですねぇ、それこそ極端主義で言えば、集団切腹が解決策かな(笑)。

そもそも、軍人ですら「敵」を理解するために文学を読むなんて、国際政治では珍しいことでもなく。ボクは人文学なんで「センモンカに従うほかできません」っていう人は、よっぽど程度の低いガクモンを普段なさっているんでしょう。うーむ……困った、中庸な処理を思いつかない

だんだん私まで中道から外れてきたので、この辺にしますが、人文学とは「ほんとうは」なにかを知りたい方のお役に、今後とも立てるような出演を続けていければ幸いです。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

(ヘッダー写真は英国紙の記事より。ちなみに、左側にはチャイコフスキーの肖像がありました)

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