「極端主義」の時代: 文学が政治学よりも役に立つとき
前回の記事の補足と、別の出演情報の紹介。先月に続き『創価新報』の10月号で、創価学会青年部長の西方光雄さんと対談しています。今回の(特に前半の)テーマは、いま世界的に見られる「中道政治の衰退」。
穏健な二大政党制の母国イギリスで政権交代したら、過激派が路上で移民排斥を唱えて暴動になり、知性ある民主主義の国フランスでは第一次と第二次の投票で、第一党が「極右→極左」に揺れ動いたこの夏の記憶は、まだ残ってますよね? それを踏まえて、こんな議論をしたりしています。
2か所に出てくる「極端主義」(extremism)という表現、最近あんま使わないけど大事だと思うんです。もとは1949年11月の『文藝』に載った、伊藤整の評論「戦後文学の偏向」にインスパイアされまして、ってかまぁパクリかな(笑)。
敗戦からまだ4年で、GHQによる占領の最中ですから、当時の文壇では戦場・貧困・飢餓……のような「極限状況」を舞台に、これが裸の人間の本質だ! みたいな筆致で読者に突きつける実存主義の作風が主流だった。しかし、そこに危うさはないのか? という問いを、伊藤は提起しました。
いちばんの極端な状況では「これが真実!」というものを推し立てて、だからそれ以外は中途半端! 偽善! イラナイ! と叫び、さぁこの真理に全面同意しろやゴラァと迫る。そうした欲求を一度は抑え込み、「みんながほどほど」で調和する姿を描かないと近代文学にはならないし、まして民主主義を営むことはできない。
で、伊藤整も挙げてますでしょ、フォークナー(フォオクナア)。いま風に言えば、ロシアのプーチンやアメリカのトランプを支えているのは、近代小説以前の黙示文学みたいな「極端主義」であって、それは日本とも無縁じゃないんですね。
同じものを原理主義(fundametalism)と呼ぶ場合、聖書を絶対視するロシア正教会とか米国南部の福音派とか、コーランの完全実現をめざすイランになら、よく当てはまる。だけど日本とのつながりが、見えなくなっちゃう。だって、日本には原理に当たる聖典とかないっすから(苦笑)。
だから中道に基づく自由な民主主義を壊すものは、「極端主義」と呼んだ方がいい気がするんです。これならいまの日本のように、原理すなわちプリンシプルがないからこそ、折々の話題ごとにいちばん振り切れた選択肢がSNS上の世論で横行しちゃう現象も、しっかり把握できますよね。
……えっ、ご記憶でない? いやだなぁ、ここ5年間に絞っても、
とか、色々あったじゃないですかぁ(満面の笑み)。いやぁ恥ずかしいですねぇ、なにせ集団で署名して「私はそういう前近代的なことをしました」って名前残してる人とか居るのが恥ずかしいすよね。人文学者なのに。
よいですか。そら、小説読めないから死ぬとか人殺すって人はあんまいないので、世の中の問題はたしかに文学以外、たとえば感染症医学とか国際政治学の「専門」の範疇で起こります。
しかし、そうした時に文学の側からはどう打ち返せるのか? を考えられる人が、本当の意味で人文学者と呼ばれるに足るのであって、「うおおおおセンモンカに全面追従!」とかしてた人は、端的に要らないのですよ。そうですねぇ、それこそ極端主義で言えば、集団切腹が解決策かな(笑)。
そもそも、軍人ですら「敵」を理解するために文学を読むなんて、国際政治では珍しいことでもなく。ボクは人文学なんで「センモンカに従うほかできません」っていう人は、よっぽど程度の低いガクモンを普段なさっているんでしょう。うーむ……困った、中庸な処理を思いつかない。
だんだん私まで中道から外れてきたので、この辺にしますが、人文学とは「ほんとうは」なにかを知りたい方のお役に、今後とも立てるような出演を続けていければ幸いです。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
(ヘッダー写真は英国紙の記事より。ちなみに、左側にはチャイコフスキーの肖像がありました)