過去(2) 小学3年〜6年で見た地獄
新しい塾に通い始めた小学3年から6年までが小学校生活いや人生で最悪かつ地獄の日々だった。
勉強自体が不得意だった自分の成績が上がらないために平日の夜はほぼ毎日父に怒鳴られ、計算ミスをすれば叩かれ、分からなくて手が止まっても叩かれ、それが夜中2時まで続くため、うとうととしてしまうと叩かれ怒鳴られた。食塩水の問題がわからないから問題通りに作った濃度の濃いものを飲まされたり、自分が大切にしていた様々なものも沢山破壊された。
私は何回も父に怒鳴らないで叩かないでと懇願し、父もそれに承諾したがやっぱり父自身制御ができなくて手を出された。それが嫌で一度駄々を兼ねてもう嫌だと逃げて自室に篭った。
自室に入ってきた父は鬼のような形相で夏期講習か冬季講習かの分厚さ3センチぐらいの教科書兼問題集を目の前でビリビリに引き裂いた。そのままゴミ袋に入れ、塾のカバンも入れ、最後に「お前が寝ている間にお前もゴミに出してやる」の一言。
涙を流していたが教科書も心も修復不可能なことがわかっていたのでただ呆然とし感情が無くなった。無くすしかなかった。その時に私の心は教科書と同じように粉々に砕かれた。寝ている間にゴミに出させるのを恐れて眠れなかった。
もちろんこの問題が解けるまでご飯抜きもあった。おそらく6年あたりでは自律神経がボロボロだったのか父がため息をついただけで涙が出て止まらず、すぐに過呼吸になり、ただ頭を掻くだけに上げられた手を殴る手だと思い肩をすくめたりしていた。涙が勝手に出て止まらないから必死に「泣くな泣くな。泣いたら視界がぼやけて問題が見えなくなって余計に叩かれる。だから絶対に泣くな。悲しくなんかない。感情をなくせ」と心の中で唱える。その頃から泣くということ対して嫌悪感が増した。
色々と話したがおそらく解離性健忘のせいでこれだけではないと思う。その理由として私は一切記憶にないのだが弟曰く「真冬の夜中の2時に玄関まで追い詰められているのを覚えてる」というものだ。
これはまだ氷山の一角に過ぎない。まだまだ記憶にない記憶があることが怖い。
土曜日曜といえば朝から昼、夕方から夜までそれが続いた。昼からは父がゴルフに出かけるからそれが唯一の救いだった。叩かれるのも怒鳴られるのも父がいない時だけは起こらない。それがたった一瞬だが私が休日で安心する時だった。
怒鳴られ殴られ叩かれた後の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで目は赤く充血して次の日は学校なのに目は腫れぼったくなってどうしたものかと悩む日も少なくはなかった。頭頂部は拳骨で腫れ上がったものがジンジンして痛かった。脳細胞この一撃でどれぐらい死んだかな、衝撃受けすぎてここから禿げていくんだろうなと不毛なことを考えていた。そのようなことを考えたり、どこかポーッとしておけば痛さが半減したり、何も感じないで済むのだ。
毎回過呼吸になるまで泣かされ、全身酸欠で痺れ、一回だけ気絶してしまったこともあったが家族は気づいていなかっただけなのか無視していたのか助けてはくれなかった。
マンションだったため母や弟は私の泣き声、父の怒鳴り声を聞いていたはずだが見て見ぬ振りだった。痛かったし苦しかったし助けて欲しかったからかなり大声で泣いていたが近隣の人はなにもしてくれなかった。親からはただ「うるさい、近所迷惑だ」とだけ。
自分のことは自分しかわからないのだ。主観と客観は別物だ。だから近隣の人を責めるつもりもない。だけど心の奥の隅では少し助けて欲しかったという願望がある。今でもそのことでインナーチャイルドが泣いている時がある。
一方母は母で毎週末のテストの結果が月曜日に公表されたのを見てヒステリックを起こしたり、機嫌が悪くなる。そのためわざと学校から帰るのを遅くしていた。ご飯なんてない日もあったからお菓子箱を漁ったり、お風呂で剃刀を投げつけられて右手中指を負傷し、今でもその傷が残っている。今更になってどれぐらいの深さだったのか気になり自分の手の甲を切ったがかなり深かった。
母の声、顔、雰囲気だけで気分が察せるようになるという一番いらない能力も付いた。
“なら塾を辞めればいい”
そう思う人もいるだろう。親にももちろん言われた。「今から塾に電話してやめるように連絡してやる」と実際連絡されて塾には多大な迷惑をかけた。
それなのに何故か辞められなかった。今の自分なら辞めてやるのに。
弟と比較されるからか?親に失望されるからか?
奇跡的にも学校の友達には恵まれていたから一緒に石蹴りしたり、駅前の落ち葉を集めて山にしてその上に乗ったり、グリコでわざと遅く帰っていた。学校が唯一の居場所だった。好きな人もいたことで学校は楽しかった。ただ厄介なことに好意を向けられた男子に物を盗られ隠され、暴力を振るわれていたが家ではほぼ毎日だったから愛情表現なのだろうなと歪んだ考えを持っていた。
あの頃の自分にとってはただただ父が帰ってくるのが遅くなるのを願い、母の顔色を伺って話を切り出すタイミングを掴むしかなかった。
耐えるだけで終わるんだから。
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