ルネッサンスの予告・ジョット
序
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃-1337年)の「荘厳の聖母」を見て、「これはそれまでの時代の絵画とは違う。どこが違うのだろうか」と思った。そこから私のジョット探索が始まった。
特に印象に残った作品を紹介させていただく。
三次元空間の出現
中世キリスト教の絵画には、そこに描かれている対象に対して祈るのではなく、その向こうにある「霊的なもの」に思いをはせて祈る、ということがその時代の慣習であった。
画家は自分の個性を発揮してはならず、職人に徹し、イエス・キリストやマリア像を描いた。
「王座の聖母」13世紀末(作者不詳)
この絵画は、13世紀末の「王座の聖母」(作者不詳)なのだが、このビザンチン画家による伝統的な「イコン」を見ても、絵画が単に「聖なる存在」を映したものであるということがうかがえる。顔も胴体も二次元空間に存在しているかのごとく平板である。また人体の比率もおかしい。
「荘厳の聖母」1310年ころ(フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵)
ところがジョットの「荘厳の聖母」(1310年ころ)を見てみよう。それまでの絵画と大きく違うのは、ジョットの絵画は三次元空間で表現されている点である。浅くはあるが奥行きがあり、そこに影も表現されている。また個性豊かな顔をした天使たちと四使徒が描かれていて、そこにはあきらかに人間の血が流れている様子がうかがえるのである。
こうした描写方法は、当時の描写法では革新的なものであった。
ジョットは従来の宗教画の中に芸術家としての個性を持ち込んだ最初の人物であると言われている。それゆえ彼は「ルネッサンスの父」とも呼ばれているのである。
「裏切られたキリスト」1303年~06年頃(アレーナ礼拝堂)
「裏切られたキリスト」1303年~06年頃(アレーナ礼拝堂)
これは「裏切られたキリスト」(1303年から06年ころ)であるが、キリストの穏やかで美しい横顔と、裏切り者ユダの野獣のような顔は、ジョットの人物の感情表現の対比のみごとさを示している。
★ユダは自分の裏切りをジョットが知っていると悟り、恐怖に身を引いている。
★キリストはユダにぎりぎりのところで接吻をさせていない。宿命に身を任せ、ユダの罪深い目を静かに見つめているのだ。そのようなキリストの心理がありありと伝わってくる。
★まわりの人物たちも、その内面の感情が見て取れるような表情で描かれている。
画面全体としてはキリスト逮捕の騒然とした劇的な緊張感を表現しているのだが、この緊迫した状況表現、そしてそれぞれの人物の感情表現などが、まさに絵画の新時代の幕開けを物語っていたのである。
「哀悼」1303年~06年頃(アレーナ礼拝堂)
「哀悼」1303年~06年頃(アレーナ礼拝堂)
「哀悼」(1303年~06年ころ)からは、それぞれの人物たちの胸を引き裂くような悲しみの内面がひしひしと伝わってくる。聖書にはこの場面の記述はないにもかかわらず、見るものの感情を激しく揺さぶる場面として受難伝ではしばしば描かれる場面である。
★聖母は苦痛に顔をゆがめて、息子の光を失った目を見つめている。
★画面中央で両手を広げて慟哭する使徒ヨハネ、右端で両手を組んで物思いに耽るニコデモが描かれている。またほかの人物たちもそれぞれに哀しみを訴え、呆然と立ちすくむ者、あきらめに似た困惑を浮かべる者など、表情豊かに描かれている。
★天使たちも、キリストを失った苦悶を抑えきれず、それぞれの表情や仕草で嘆かれている。空を満たしているのは、天使たちの深い悲しみのなかにある苦しみや絶望感なのである。
まとめ
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃-1337年)はイタリアのゴシック期を代表する画家といわれており、同時に建築家、彫刻家でもあった。
彼はイタリア・ルネサンスに直接先行する絵画様式の確立者であり、イタリア・ルネサンス美術の創始者とも言われている。
「羊の群れとともにいた少年ジョットは、岩の上に1匹の羊をデッサンしていた。そこにフィレンツェの有名な画家チマブーエが通りかかり、ジョットの天性のデッサン力と素質に驚嘆した。その後ジョットはチマブーエの工房に弟子入りする」という生い立ちから始まったジョットは、最期まで新時代の幕開けを示す絵画の数々を産み出した。
彼は絵画において、ビザンチン美術の硬直した伝統を完全に拭い去り、見事な写実描写と生命力によってあふれた劇的な表現をしたものであった。
彼は世界をあるがままにとらえ、率直に、自然に描いてみせている。そうすることによって中世の間に失われてしまった古典美術の美しさを蘇らせていったのである。
ジョットと同時代の画家ジョヴァンニ・ヴィッラーニはジョットのことを「この時代における最大の巨匠である。ジョットが描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってジョットはフィレンツェのお抱え画家となった」と書き残している。
ジョットが各地に蒔いた近代絵画の種は、彼の様式を学び後世に伝える「ジョッテスキ」を産み出し、およそ100年後のマザッチョを持って完成を見ることになるのであった。
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