『ぼそぼそ声のフェミニズム』栗田隆子
本書の内容から一度離れるようだが、私は中学生のときにいわゆる不登校のような状態になったことがある。学校に行くとしてもほぼ100%遅刻する、というような。どうしてそんな状態になってしまったのか、というと、今では思春期だったとか、重篤な中2病だったとか、っていうことでまとめることにしている。やや早熟だった(多分)ので、Coccoとか、南条あやみたいな、女の子の病みカルチャーのようなものにもすごくシンパシーを感じていた部分もあったと思う。学校に行けなくなったことの理由はいまだに全貌がクリアになっているわけではないけど、「甘え」だった、「自分のせい」だったんだという考えはいまだに抜けない。
不登校みたいな状況を抜け出そうと思えたのは、中3になるときに、高校に行こうかなと思えたタイミングだった。そのときに人生に対する考え方を変えなくちゃと思った。未来にたいして何らかの希望を持ったときに「場のルールのなかで優等生的な位置を占めることによって、自由を手に入れることができる」という考え方を身に着けた気がする。
例えば、不登校の女の子が、たまに学校に来て「この校則間違ってるし無意味だから撤廃すべき!」って言っても誰も言うことを聞いてくれないけど、好成績の、あるいは品行方正で校則も守るようなまともな生徒がきちんとした形で交渉すれば、環境を変革できるのではないか?という考え。
こういう考えのもと、県内の校則のない公立高校に進んだ。生徒会の力が強い学校では生徒が自主的に意思決定をする、そういう学校のほうが向いているのではないかと母に言われたことも大きな原因だった。ので、ビリギャルかってぐらいの感じで、偏差値で言うと1年で40くらい上げた。
で、ここで、この本の話に戻るけれど、わたし個人は、不登校を終えるときに身に着けた「場のルールのなかで優等生的な位置を占めることによって、自由を手に入れることができる」という価値観って、ジェンダーとか、格差の問題から考えるとものすごく偏った、自己責任論者の考えだと言う気がする。前に誰か、フェミニズムの運動をしている人が「わたしたちは、男性に向かって、頭を地面に擦り付けながら権利を請うのはもうやめるのだ」と、言ってたのを思い出すと、まさに頭を地面に擦り付けながら権利を請うことのようにも思えるし、めっちゃ名誉男性感が強い。
この、自分のなかの自己責任論者、いまだにふっと現れたりするので非常に厄介である。
女性が雇用の調整弁として使われてきたこと、子供や老人のケア労働としてあてがわれる要因として想定されているのが常に女であったこと、そして誰もが心身を壊して努力のできない状況になるかもしれないことを考えると、こういうことの解決は個人の努力じゃなくて、社会全体の制度や規範を変えることで、解決していくべきことなんじゃないか?というのが本書の主張。
「甘え」、「自己責任」という言葉が生み出されるメカニズムを考えると、それがある程度人を説得してしまうことにもなんとなく納得してしまう。自己責任を唱える人も含めて、全員が同じ生き方をすることなんか不可能なわけで、「努力」に対してだけ「自分はこんなにできたんだから貴様にもできるはずだ」と説くのはシンプルにおかしい。
(日本には米国ほどの明白な人種差別がないので忘れがちだけど、例えば人種によってつけない職業がある、いくら努力しても。BLACK LIVES MATTERを支持してさえも自己責任の下では彼らはそれさえ突破しろ、というのかもしれないけど
(そういえば最近、人間のOSはそんなに変わらないはずで、入れてるアプリが違うくらいのもん、という話をしたけど、やっぱり入れてるアプリの違いのほう、同じOSであっても、容量やらバッテリー疲労度合いとかは違うわけで、そこの違いのほうを大事にしていったほうがいいのかもってわたしは今日思った。)
筆者の栗田さんは、「目に見える個人間の不幸を比べ合ったり、競争し合ったりする」のではなく「個人のスキルに還元されないコミュニケーションを、対話を、生み出すこと」によって「社会に関わり、社会を変える手立てを取り戻す」ことを提案している。
じゃあどうする?「こうしましょう!」の部分が多い本ではないけど、時に内紛のようになりがちなフェミニズムの丁度いい温度を示してくれるちょうどいい本でした。
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