【146】細部に宿るのは、神か悪魔か(そして人間はどこに行くのか)

「神は細部に宿る」という言い回しは、皆さんもよくご存知のことでしょう。

この文言の起源は多くの名言や格言の類と同じように不明確なものですが、なんにせよ一度手をつけたことについて、あるいは気を入れてやっていることについて、細かいことにまでちゃんと気を配らなくてはならないね、という意味でよく使われる文言です。

あるいは私のようにテクストを読む人間であれば、細かい表現や、なんのことはないように見える細部においてこそ、よく見ると美しく輝くものが秘められている、という意味に理解することも十分に可能でしょう。


この表現と対になるように、「悪魔は細部に宿る」という言い方があります。

「悪魔は細部に宿る」と言われるときには、細部には解決の難しい謎が秘められているということ、あるいはときに我々をつまずかせ罠にはめるような要素が細部には宿ってしまうから注意しなくてはならないということ、が言われているものと理解しておいてよいでしょう。


つまずかせるのであれ、あるいは新たな可能性を開いてくれるのであれ、物事や表現の細部に見過ごしがたい力が潜んでいるというのは事実でしょう。

ですから、私たちが物を書いたり作ったりするときは、もちろん細部には気を払うべきですし、ものを読むとかものを使うとかするときには、細部と慎重に向きあうことも必要になるのかもしれません。

細部には悪魔が宿りうるもので、その細部を覗き込みすぎてしまうと、そこに魅入られて、捕らわれてしまうことがありうるからには、細部は慎重に覗かねばなりません。

逆に、細部をよく見なければ、見過ごしてしまうこと——神の痕跡——も多いでしょう。

神の宿りうる場所として細部を重視するにしても、悪魔が巣食うかもしれないところとして細部を恐れるにしても、細部には力があり、無視して通ることはなかなか難しいし、すっかり無視するわけにもいかない、ということです。


これで終わってもよいのですが、ちょっとひねくれた見方をしてみると、神であれ悪魔であれ、我々人間の力を大いに超えたものであるからには、あまり気にかけても仕方がない、というようにも思われるのです。

つまり、細部は細部で大事だけれども、気にしすぎてもしかたがない、とも思われるということです。

「神」はもちろん人知を超えた存在であるとわかることでしょう。少なくとも日本語でも、あるいは一神教の文脈でも、神は人知を超えた存在です。

「悪魔」という表現に関して、私は東洋思想のことは知りません。キリスト教の文脈では、悪魔とは、堕落した天使たちの中で最も最上位の者のことで、普通は単数形で使われます(悪魔のステータスについては、天使の中で最も低いものが悪魔になったのだと考える論者もいましたが、そこまで一般的ではありません)。ラテン語ならdiabolus(男性名詞、単数)というわけです。そして、悪魔の軍団にいる、他の悪い(堕落した)天使たちは、悪霊(daemones)——ふつうは「あくれい」とルビを振ります——と複数形で呼ばれるわけですね。

(悪魔を含む)天使というのは、感覚で触れうるかたちをとって人間の前に現れることがあるにせよ、本質的には肉体を持たない存在であって、つまり純粋に霊的な存在とされます。

ということは、人間にはできない様々なことができます。認識能力という点でも人間を回っていますし、様々なレベルにおいて、人間では行使しえないような力を持った存在です。

言ってしまえば、(悪魔を含む)天使は、啓示の媒介として人間と神の間にあるのみならず、力能の点でも人間より高く神より低いのですね。最も弱い、低いレヴェルの天使であっても、人間よりはある意味で上にあるというわけです。悪魔も同様だということです。

こうして、細部に宿るのが神であれ悪魔であれ、細部に宿るのは人間の力を超えた存在であり、そうした存在が細部に宿ってしまう可能性があるのです。


ここからひねくり出されうるのは、細部に宿るのは、所詮は人知を超えてしまっているので、我々はどれだけ手を尽くしても仕方がない面がある、ということです。

狙って・意識的に神を宿らせることはできないし、せいぜい祈るくらいしかできないでしょう。

もちろん、人事を尽くして天命を待つ、という言葉があるように、力は尽くすべきです。手を抜くべきであるとは思いません。しかし、あまり細部にこだわりすぎてもしょうがない。

そうしたことを、この「神は細部に宿る」という言葉は、逆に我々に教えるようでもあります。

そして、「悪魔は細部に宿る」という言い方を尊重するのであれば、悪魔は我々がどう頑張っても細部に介入してくるもので、いかに我々が細部に意識をめぐらせ完全に支配しようと思っても、何気ない細部に悪魔が巣食ってしまうことはある、というようでもあります。

どんなに厳密にテクストを書いてみても、何気ない細部が書き手には予想もつかない強烈な——あるいは破壊的な——効果を持ってしまうことがある、ということは、想像するに容易いことでしょう。

あるいは、とりわけフィクションを観たり読んだりしていれば、他の人がひっかからないであろう細かい部分に魅入られてしまったりする、そういうことがあるでしょう。

私にもいくつか経験があります。……たとえば、生きつづけることを恥じて自殺しようとした少女が生還した後に認めた手記において、死ななかったことを後悔する日も、死ななくてよかったと想う日も来るだろうと、どこか突き放したようなアンビヴァレントな確信を示したシーンは、私の心に強くこびりついていますが、いったい他にこのシーンを気にかける読者がどれくらいいるのでしょうか(野村美月『文学少女と死にたがりの道化』ファミ通文庫、2006年、p.244)。

悪魔はどうしたって、私たちの意図を超えるかたちで介入してくる。どうしてもちょっかいを出してくる。そうした可能性を捨てるか否かは、私たちの裁量には委ねられてはいない。であるからには、ある意味では諦めが肝心だよね、ということが言われているようも思われるのです。言い換えれば、「悪魔は細部に宿る」と言われるときには、「細部というものが存在する限り、細部にはどうしても悪魔が宿る余地が残る」と言われていると考えられ、人間が自らの作るものや 自らの出会うものの全体を完全に支配できるわけではない、という健全な諦めが示されているようでもあります。

つまり、神や悪魔といった語に訴える限りにおいて、この対をなすような格言は、どちらも人間の限界を明るみに出す効果を持つようにも思われてくる、というなりゆきです。


細部に宿るのが神であれ悪魔であれ、こうした物言いが第一義的に主張している(ことになっている)のはもちろん、細部には色々な意味で注意しなくてはいけないし、細部において手を抜いてはならない、ということです。それはふつう、細部を輝かせるためであり、細部の輝きを拾うためであり、あるいは細部の罠に落ちないためだ、と解釈されるでしょう。

しかし今回やってみたのは、神や悪魔は人知を超えている(から細部に関しては諦めが肝心です)、という側面からの理解です。

言い直すなら、細部にこだわり過ぎても仕方がない、という前提が、「神(or悪魔)は細部に宿る」という言い方のうちには避けがたく含まれているように思われるのです。

西洋に(も)深く根ざす言葉であるからには、その背後に、今私が見てきたような、人が作るものの細部には人知を超えたものが宿りうる、という観念が裏書きされているように思われますし、このように読むことは表現に対して特に不誠実ではないでしょう。


では、だからなんだというのでしょうか。こうして人間に対してある種の限界が突きつけられるのはよいとして、では人間はその限界の中で何をすることができるのでしょうか。

細部が作り手や読み手の知を超えたものである、ということを知ることができたからといって、私はもちろん、細部に関して手を抜くということを推奨するものではありません。繰り返し述べている通りです。

寧ろ言いたいのは、言えそうなのは、大筋で過たないことの方が重要ではないか、ということです。

ある意味では当然のことかもしれませんが、細部にばかり気を取られて、大筋・大枠というものを見失っていては、あまり実りのある活動はできないでしょう。剣道をやっているのにバットで素振りをやるようなものです。大筋に関する判断を誤っていれば、もちろん細部に関する態度もおかしなことになるでしょう。

それに、大筋に対しては、神や悪魔などは介入するまでもありません。神や悪魔は「大筋」にわざわざ宿ろうとはしない。神や悪魔が細部に宿るということがあえて強調されるのだとすれば、そして日本語の言い方における「神『は』細部に宿る」「悪魔『は』細部に宿る」という限定・特定の係助詞「は」を参照してよいなら、大筋のほうには、神や悪魔はわざわざ干渉してこない。

(あるいは逆に、人間は神が定めたより広い大筋の中でしか、何らかの「大筋」を構想することができない、という発想は、「神」概念を脱宗教化するなら、構造としては信仰のない人にも受け入れうるものです。)

であれば、この言葉から学びうることを積極的に言ってみるなら、それは細部に宿るのが神なのであれ悪魔なのであれ、大筋だけは見逃さないようにしたいし、そうすることはできるよね、ということではないでしょうか(繰り返しますが、これは連想ゲームの類で、言い回しに関する解釈の歴史的正統性を主張するものではありません)。


繰り返して言う通り、細部を切り捨ててよいという意味でありませんが、細部に関しては健全な諦めを持つ必要がある。神であれ悪魔であれ、人知を超えたものが介入してくるのを私たちが止めることはできないからです。

しかし、そうした謂わば消極的な解釈には、積極的な面を見出すこともできるでしょう。神や悪魔が好んで細部にいたずらをするからには、実は大筋のほうこそが私たちの手に委ねられており、その点においてこそ自由と可能性がある、ということです。あるいは、文章にせよ人生の計画にせよ難にせよ、作るとき・読むとき・実行するときには、まずは大筋を見逃してはならない、ということです。

つまり、細部でない部分とは人知が十分に働ける場所であり、かつ神や悪魔が少なくとも好んで介入するようなところでもないからには、私たちは先ず以て大枠をはっきりと、自ら規定することが必要になるのですし、この範囲においては少なくとも死力を尽くすことができるでしょう。

何度も申しあげている通り、細部において知性や力を働かせることはもちろん大切でしょう。

しかし、まずは大きなものにおいて、人知で制御しうる範囲において、過たないように最大限力を尽くす、ということが重要になるのではないかということです。

概ねそうしたことを、「細部」に宿るという「神」や「悪魔」は、婉曲的に示してくれているのではないでしょうか。


もちろん以上も、古い格言が含む「神」「悪魔」といった「細部」について、私が過剰な読み込みを行った結果と言えるでしょう。

であれば以上の文面は、私が読みとった格言の美点ないしは利用価値、つまり「神」の痕跡であると同時に、私が「悪魔」の誘惑にまんまと乗った結果なのかもしれません。