甘味の短歌史 コスモス 新・評論の場 2016年

はじめに


 どんなものを食べているのか言ってくれたまえ、君の人となりを言い当ててみせよう。とはブリヤ・サヴァランの有名すぎる箴言だが、ロラン・バルトはさらに食事と言語が口腔という同一器官に関わる営みであるとし、タイトルそれもラ・ラングLa langueと銘打つ考察を試みている。彼に倣い「口唇性」の概念によって、言葉であらわされるもの、なかんずく「うた」、近現代の短歌を読み解いていこうと思う。
 食べ物を詠んだ短歌は数多く、和歌の成立時から見ていけば膨大な数にのぼる。ここでは「甘味」に注目してみよう。酸・辛・甘・鹹・苦の味覚五要素のなかでも「なんとなく新しい」表現に結びついていると思われるからだ。新しさ、そして豊かさ。近代、現代の短歌を見ていく上でひとつの指標になるのではないか。そのぼんやりとした印象をもとに書き進めてゆこうと思う。
     Ⅰ章 近代の甘味 ―白秋、柊二を中心に
 味覚における文明開化を高らかに宣言したのはやはり北原白秋であろう。殊に洋菓子を歌中に詠みこんだのは鎖国を終えて間もない日本人にとっては衝撃的(センセーショナル)であったと考えられる。
  カステラの黄なるやはらみ新らしき味はいもよし春の暮れゆく        『桐の花』大正二年
  楂古聿(チョコレート)嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯氣も静こころなし
 歌集『桐の花』序文において、桐の花、吹笛(フルート)の音色、〈ぱさぱさとしてどこか手さわりの澁いカステラ〉、〈粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象〉のなつかしさを最終的には〈近代人の繊細な感覺〉に結びつけるに到る。旧在の〈飴のやうに滑つこい〉〈ぬめぬめした油繒〉や〈水で洗ひあげたやうな水彩畫〉は〈快い反應を起しうる事は到底不可能である〉として訣別を宣言しているのである。
 近代短歌には菓子はおろか、果物を詠む作品すら極め少なかった。手元で俯瞰することのできる書物、『現代の短歌』(高野公彦編、講談社学術文庫)から探してみることにする。
 美食家・食通として知られる斎藤茂吉にはその名も『白桃』という歌集がある。昭和十七年の発行である。甘い食物はほかに「葡萄」が詠まれている。茂吉の作品は膨大な数にのぼるので、機会があったら精査したい。木俣修には「無花果」、柴生田稔には「桑の実」、安立スハルには「青梅に蜜」を詠んだ歌がそれぞれあるが、いずれも昭和二十年以降の作品であった。北原白秋の味覚の進取性は際立っている。大正時代の日本人の心に、いかに甘美な衝撃が走ったことであろうか。
白秋によってもたらされた言葉の糖蜜は、やがてとろりと短歌の源流に混ざっていった。近代そして現代の歌人たちはそこから多くを汲み出し、また新たな甘味を発見して創造を続けてゆくのである。


       林檎の共感覚
  君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  『桐の花』       
この歌によって「林檎」は短歌史におけるモダニスム到来の象徴として燦然と輝くオブジェとなった。比較文学者川本皓嗣は、平成二十七年皇室講書始めの儀のご進講において「共感覚」つまりひとつの感覚器官によって複数の感覚を知覚する現象の概念を用いてこの歌を解読している。一行の歌を読むと生まれる雪の色や輝きの視覚、足音の聴覚、足裏の触覚、「さくさくと」の擬音語の修辞上の飛躍・浮遊が引き出す触覚、視覚、聴覚、嗅覚そして味覚…。
 川本は「たぶん青っぽい林檎の色」がイメージされると説く。驚きであった。筆者はこの歌に出会ったとき想像したのは「白い断面、あるいはすりおろした林檎」だ。つい先日、色彩が話題にのぼるときまでずっとそう思っていたのだ。この直感をあとづけに考察するならば、白秋は幼少の頃、裕福な家庭の病弱な「びいどろ壜」のような少年で、ばあや、ねえや、そして母親が、弱りきって食欲をなくした彼に林檎をすりおろして与えていたのではないか。その甘さと、熱を出して寝ている自分のおでこに当てられる白いひんやりとした手の感触が、彼のなかでずっと「優しさ」の象徴として在ったのではないだろうか?という筆者の説を挙げておきたい。


       甘味の継承
では、白秋直系の弟子筋の宮柊二には甘味の表現はどのように受け継がれたのか。ところが、ここでおそろしいことが起こるのだ。
  猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく        『小紺珠』昭和二十三年 
  子のために欲しきバターと言ふ妻よ着物を売りて金を得しゆゑ
第二次世界大戦である。出征、配給制、食糧難、飢餓…単なる表現上の問題のみではない。生活が、社会全体が一変する。質素倹約の国策に言論統制が追い討ちをかけ、甘美なモダニスムの継承などは許されず、決定的な断絶がもたらされた。歌人たちにも、市井の生活者たちからも、「甘味」は非常に遠い概念となったのであった。
 戦後の柊二の歌を見てみよう。
  ひかりさす机のうへの皿の中に鳶色のいろの柿の核六つ          『晩夏』昭和二十六年
  危ふくて言ひがたきまで険しきに無花果の実りを待つ嫗あり  
  燠欲しくなりし寒き夜たのしみて灯のもとに置く柿一果二果     『多く夜の歌』昭和三十六年
  赤き柿食えば歯に沁みおもほゆる雪乱れ降るわれがふるさと   『藤棚の下の小室』昭和四十七年
菓子二箇(ふたつ)柿二片(ふたひら)をむさぼりて震えを静め客に会はんとす           『忘瓦亭の歌』昭和五十三年
 甘味としては柿をことのほか好んだようで、ぬくもりのある色かたち、懐かしい味わい、心を鎮める糖分として登場する。では、林檎はどうだろう。
 道の辺に避けむとしたりくれなゐに渦巻けるごとき林檎の皮          『藤棚の下の小室』
 わが膝を落ちたる林檎飛行機の床にとどまる赤く
  静けく        『獨石馬』昭和五十年
 柊二は、林檎を口中へ入れない。静物画的描写のモデルとして、造形、色彩を注視しているのみである。落ちているのを拾いもしない。林檎はお好きではなかったのであろうか?宮英子夫人に確かめたかった心残りのひとつである。
      平和の味は
  お茶菓子のいたく甘きは大名の通りし道の名残りとぞ言ふ       『緑金の森』昭和六十一年
戦前、戦中、戦後を経て宮柊二の歌に加工食品の和菓子が主役としてあらわれるのはここにきてである。旅先で詠まれたものであろう。観光地に菓子屋、土産屋が軒を連ねる風景、現在に至る恵まれた環境が想起される。
猫も鼠も食らわねばならなかったときのことをこのとき柊二は忘れてはいまい。同じ舌の上に乗せるものの性質の、味わいの天と地の差!
「平和」というものは、酸っぱいか、辛いか、鹹(しおから)いか、苦いか、と問われればきっと誰もが「否、甘い味がする」と答えるだろう。ジョン・ハリソン『共感覚―もっとも奇妙な知覚世界』(松井香弥子訳、新曜社)によれば、医学的な共感覚synaethesiaと芸術表現の比喩metaphorは、〈仲の良い親友〉であって同一のものではないと区別している。「色聴」という現象に関して「どの共感覚者においても、同じ音に関して連想する色は、別の共感覚者と一致しないか、したとしてもかなり稀である」との研究結果が出たようだ。にもかかわらずわれわれの「甘味」に託されるイメージの一致、これはむしろユングの集合的無意識collective unconsciousの領域に踏み込んでゆく感性であると考えられないだろうか。


    Ⅱ章 現代、現在の甘味                           
 北原白秋のモダンな甘味の発見、戦争による食文化の断絶、戦後の復興を経て、現代短歌には気負うことなく衒うことなくやすやすと食べ物、甘いものが登場するようになった。
  草の上にゆるやかに犬を引き廻し与へむとする堅きビス          『原牛』昭和三十五年
  昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつをり       『朱霊』昭和四十五年
葛原妙子は壜の中の酢の歌が有名だが、まさに酸いも甘いも何もかも噛み分ける勢いで柘榴、レモン、卵黄、塩、かぼちゃ、梨、胡桃、バナナ、卵白、葡萄、鰈、薔薇酒、黄酒、ぜんまい、枇杷…貪欲にあらゆる食べ物、飲み物を取り込み、咀嚼してゆき、現代歌人のなかでも無類の食欲を見せた。ここで戦後、改めて短歌における味覚の実験が再開されたといっていいだろう。


       スイーツ(笑)
  キャラメルが歯にからまって甘ったるい空気を吐いているのがわかる      『ハッピーアイスクリーム』        加藤千恵 平成十三年
  明治屋に初めて二人で行きし日の苺のジャムの一瓶終わる      『チョコレート革命』俵万智 平成九年
「スイーツ(笑)」という言葉をご存知だろうか。すいーつかっこわらい、と発音するらしいのだが、ネット流行語大賞で二〇〇七年銀賞となった、俗語に類する言葉である。意味は、日本のマスメディアによる女性向けのグルメ特集を鵜呑みにし、和洋菓子やデザートを勿体ぶって「スイーツ」と呼ぶ(ような感性を有する)女性への蔑称である。
アイスクリーム、チョコレートとまさにお菓子そのものをタイトルに入れた近年の歌集から二首挙げてみた。これはなにも加藤、俵らをネットスラングによって貶めるのが目的ではない。現代の女流短歌の流通・消費のあり方について考察するための好材料として発見したからである。
彼女らが所謂「スイーツ脳」で作歌しているのではない。歌集を紐解くと(やはり技術面では甘さが見られるものの、たとえば掲出歌の字余りには推敲の余地がある)時折鋭い思索や皮肉、内省もあらわれ、彼女らは強かで戦略的ですらある。資本経済のターゲットとされていることを省みない状況認識の甘さや批評性の甘さから主人公らの人物像はやや遠い。
彼女ら自身というよりも、その歌集の「売られ方」が「スイーツ(笑)向け」なのだ。〈十七歳の処女(この二文字を赤く印刷している)歌集〉と銘打ち文庫版ではレディースコミック作家おかざき真里に表紙を描かせている『ハッピーアイスクリーム』、〈あの『サラダ記念日』の歌人が今度は不倫をテーマに!〉とゴシップ性を強調して宣伝された『チョコレート革命』、これらはF1,F2層に向けて発売された商品といえる。F1とは、マスコミ、マーケティング、広告などの分野で用いられる、ターゲットとして想定される二〇~三十四歳の女性、F2は三十五~四十九歳の女性を指す言葉である。現代の日本において最も消費活動が活発な層、言い換えれば経済市場の策略に対して最も脆弱な層を狙っているのだ。
この「スイーツ(笑)」たちは単なる消費者として甘いものだけを欲しがり、ただただダイエットと虫歯の治療を繰り返すのみに終わるのか?それとも摂取した糖分をエネルギーに変えて新たな創造に向かうのか?それはこの先一〇〇年ほど歌壇の状況を観察していれば面白いデータがとれるのではないかと筆者は期待している。
       付記
今回、和菓子の名歌として岡本かの子、高野公彦の作品について論じたかったのだが、紙幅の都合により筆を置きます。

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