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13歳からのアート思考【読書感想文】
「いろがぐちゃぐちゃしてて、まざってるところ」
という娘の回答に、(わたしも)と嬉しい気持ちで同意しながらサバをほぐす。
夕食の席で、先日行った展覧会<モネ&フレンズ・アライブ>の話になったのだった。
そして、「モネの絵のどんなところが好きなの?」と訊いてみたら冒頭のこたえが返ってきたのだった。
いつ、何がきっかけだったのかは忘れてしまったけれど、彼女はクロード・モネが大好きで、モネの絵を見つけると大真面目に「鑑賞」している。
その様子から、彼女のやり方で何かをチューニングしている感じが、ひしひしと伝わってくる。
だからわたしは、邪魔をしないと決めている。
ふたりで展覧会に行ったときも、言葉の展示を音読してあげたくらい。
あとは各々個人プレー。(物理的には一緒にいるけども)
彼女が自分から言い出したり訊いてきたりしなければ作品やアーティストについてあれこれ語ることもしない。
それは教育方針と言うよりは、
「わたし自身もゆっくり鑑賞したい」
「アートで体感したことを言葉にするのは難しい」
と言う理由によるところが大きいのだけど、この日はサバをつつきながら、娘のマインドを覗き見したい気持ちがもたげたので、インタビューを続けてみた。
私「ねえ、モネの絵を見たときって、どんな感じ?」
キリ「おちつく」
私「うんうん。落ち着くよね」
キリ「それから、しっともする」
私「えっ!嫉妬?」
キリ「うん」
私「嫉妬って言葉知ってるんだ?」
キリ「うん」
私「ちなみに、嫉妬するとキリはどんな気持ちになるの?」
わたしが訊くと、娘は首を傾げながらも、ほとんど迷いなく言葉を続けた。
「しょぼーんとなって、ぼーっとみるかんじ」と。
◇
<13歳からのアート思考>は、東京学芸大学の個人研究員である末永幸歩さんが書かれたカジュアルな専門書で、下記の二行の質問から始まる。
みなさんは、美術館に行くことがありますか?
美術館に来たつもりになって、次の絵を「鑑賞」してみてください。
見開きの右ページには上記の質問文、そして左ページにはクロード・モネの睡蓮と、美術館によくある箇条書きの解説文が印刷されている。
そして「鑑賞」を終えてページをめくると、今度はこんな質問が書かれている。
いま、あなたは「絵を見ていた時間」と、その下の「解説文を読んでいた時間」、どちらのほうが長かったですか?
わたしが行った「鑑賞」は後述するとして、とにかく導入からもう、ものすごくワクワクしてしまう。
題名の通り、本書は「アート的なものの考え方」について説かれている。
アート的なものの考え方とは、「自分なりの視点」で世界を見て「自分なりの答え」をつくりだすための作法だと言う。
(つくる、の部分がひらいた表記になっててキュンとする)
心の目で見る。と言う表現が広く使われているように、見ると言う行為が眼球だけでもって行うものではない、と言うのは周知の通りだし、みんなと同じ答えを持つことを強要する教育は、それを支持する人も含めて絶滅しかかっているけれど、では「どこを見たら自分なりの視点と言えるのか」「どんな考えを持てば自分なりの答えと言えるのか」についてスラスラ言語化できる人はほとんどいないんじゃないだろうか。
もちろん、わたしもできない。
それに加えて、わたしはアートが好きで美術館によく足を運ぶわりには、アートについて全く明るくない。
まずアーティスト(画家)の名前をろくに知らないし、作品名はもっと知らない。
美術史も当然知らないし、かじったところで5分後に全て忘れる自信すらある。
そんなんだから、夕食時に聞いた娘の回答のガチ感に、あまりに自己流かつ放置プレイな自分の「鑑賞」(と教育スタイル)に不安を覚えて、その道の人がどうやって「鑑賞」をしているのか、どんな「鑑賞」を促してあげたら娘にとってプラスになるのかを知りたくて、手に取った本が<13歳からのアート思考>だった。
さて。実際に読んでみて、その問いは解消されたのか?
された。
なんなら開始わずか4ページで解消された。
「鑑賞」の作法なんてものはこの世に無いし、むしろ何となく出来上がってしまった作法を覆していくのがアートであり、そうした自分だけのアートを生み出す力を養うための「鑑賞」において特定の作法を求めること自体がナンセンス。だからキリはキリで、今は好きなように鑑賞してください。以上。
そんなわけで、5ページ目からは気負いもなくなり、純粋な自分の娯楽と美術史の教養(すぐ忘れるくせに)として読み始めた。
プロローグを含めて9章で構成された本書は、各章の始めに冒頭のような質問が用意されていて、その質問の意図を紐解く形で、時系列に歴代の美術作品が紹介されていく。
好きなように鑑賞すれば良い、と言う前述の言葉と矛盾してしまうけれど、こんな視点で作品を見るのって面白いなぁ!の連続で、すごく楽しい読書時間だった。
「自分なりの視点」や「自分なりの答え」というものは、自分以外の視点や答えに能動的に触れることで、自ずと浮かび上がってくるものなのかも知れない。と読みながら思ったりした。
そして、歴代のアーティストたちが行ってきた挑戦は、なぜか読めば読むほど、身に覚えがあると思った。
「目に映る世界を徹底的に模倣することからの解放」
「多視点でとらえたものを再構成すること」
「具象物ではない音やリズムを描くこと」
「美しさだけを伴った視覚芸術の放棄」
「イメージの投影されていない物質としての絵をつくること」
「アートと非アートの線引きについて疑うこと」
各章で紹介されたこれら美術史の転機について、美術に携わっていないのに「あ、なんか知ってるかも」と感じた人はいないだろうか。
わたしは、これらをアートではなく、ぜんぶ「小説」に教えてもらったと思った。
該当しない項目がひとつあるけれど、あとは創作で挑戦したり、読者として体験したことばかりだったから。
それでわたしは、この本に書かれている「アート」という言葉を「小説」に置き換えて、最初から最後までもう一度読んでみた。
そしたら読めた。
ぜんぶ意味が通った。
エピローグに至っては、二巡目に読んだときの方がやたら響いて、突っ伏して泣いてしまった。
(一巡目でも泣いたのに)
これもしかしたら文学だけじゃなく、音楽も芸能も学問も、言葉を置き換えて読むことが出来るのでは?
と思いながら本を閉じて、何だか久しぶりに思ったのだ。どうして自分は書いてるんだろうと。
なんで書いてるんだろう。と考えるのは、数年に一回くらいだと思う。
何も書かないでいるときに、現実がやたら色褪せてしまって「わたし何してんねやろ」と白けてしまうことはよくあるけれど、それだって理由を突き詰めるようなことはしない。
書いていない時間がどれだけ幸せで楽しくて心温まるものであってもそうなってしまうので、もうただの生理現象というか、自分はそういう仕様なのだと思って、そういう時は何でも良いからとりあえず書くことにしている。
運転の仕方を知らない乗り物を乗り回していただけだった。
何かを書くことは楽しいけど、自分だけが参加しているアクティビティで、無人の世界の暴走族で、それがいい、それを楽しんでいたい、一生このままでいいと思っていた時もあったけど、この頃はその乗り物に誰かと乗って、景色や匂いや音などの体験を共有する旅をしてみたいと思うようになっている。それは自分の中ですごく大きな変化だと思うし、この変化はきっと自分をどこか知らない場所へと連れていくものであるような気がする。
「書く」ということがあってよかった。書くことは、それを楽しんでいるときも不安に感じるときも、等しくわたしの人生の時間を進めてくれる。生きていることを、生きているかぎり、心から面白がれそうだという気持ちにさせてくれる。
日記を見返してみたら、どうして書いているのか、を最後にアウトプットしたのは2023年の1月だった。
(そしてたぶん、これがnoteを始めた一番大きな理由だったんだろうなと思われる)
一年半前の日記を読みながら、次にアウトプットするときにはきっと、全く違う言葉が出てくるだろうなと感じた。
今はあまりに渦中にいて上手く言語化ができないけれど、来年あたりきっと、この気持ちを書き残したくてたまらなくなるような気がする。
そしてその時は、<13歳からのアート思考>をもう一度読み返すと思うのだ。
表現ってなんなのか?
という問いに、何度でも寄り添ってくれる本だと思うから。
◇
「しょぼーんとなって、ぼーっとみるかんじ」
と言われて、(…あってるね。あってる)と感心しながら箸を止め、まだ何かおもろいこと喋るかな?という期待を込めて次の言葉を待った。
ポテトサラダからみかんだけをほじくり出しながら、娘はつらつらと話を続け、
キリ「モネさんのことばもよかった」
私「うん、よかったよね。買ったパンフレットにも書いてあるよ。モネが遺した言葉読んであげようか」
キリ「ねえ。のこしたっていわないで」
私「……」
キリ「……」
私「あ。モネが死んじゃったのが悲しいから?」
キリ(←頷く。3秒後に泣く)
私「えええごめん。モネの言葉、って言おうね」
キリ「うん…うん…」(←ティッシュ取りに行く)
という展開となった。
思わず、わたし自身のそれはまだ生きてるか?と不安になるくらいの、原始的な匂いのする感受性にくらくらしていると、
「キリはモネさんとおともだちになりたい。それでね、まなぶの。いっしょに」
とめまいに追い討ちをかけるような言葉が投げかけられた。
あなたはすごいな。
ほんまに7歳か。
そして、あなたとわたしは、間違いなく親子だなって思うよ。
矢継ぎ早に思い、ティッシュで目を拭いながら帰ってきた彼女を抱きしめる。
言語化はまだきちんと出来ていないけれど、人間を表現の世界につれていくのは好奇心と、「いっしょに」という心持ちなんじゃないかと、2024年のわたしはそんなふうに感じている。
最初に目が行ったのは、作品右上に描かれた睡蓮の群生。視覚がきちんと色を捉えた瞬間、てのひらにやわらかなグリーンの感触。それから、後ろからやってきた光が体を通り抜けて前方へと流れていく感触。きらきら。もくもく。しゅわしゅわ。と心の中にオノマトペを散らかしながら、色と感触の世界を揺蕩う。
気が済んだので左下の深い青に目をうつして見ると、頭だけが自分の首へと胴体へと埋まっていくような感覚。自分の体をエレベーターみたいにゆっくりと下降して、足元に触った後は地面ではなく睡蓮の深い青の中に音もなく沈んで行くような感覚。すごく静かでやわらかで、頭というか生首まるごと水の中でふやけて、生麩みたいになっていくような感覚。気持ちいい。
絵だけじゃなく、解説文だって読みたい。
クロード・モネ。睡蓮。ふむふむ。印象派の中心人物として知られ…
ふーん。なんか、読むのめんどくさくなってきちゃった。もういいや。ページめくろう。