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サイコパスと聖者は紙一重。なぜなら、この世は映画や舞台のようなものだから

サイコパスの殺人鬼を扱った映画『悪の教典』にて、こんなセリフが出てくる。 

「俺は相手を殺害することが合理的だと判断すれば、迷わずそれを実行することができるんだ」



そして、ヒンドゥー教の聖典であるパガヴァッド・ギーターにも、こんな描写がてんこ盛りである。

「心で感覚を抑えて あらゆることに執着せずに 私欲なく仕事を遂行する人こそ まことに優れた人物である」

『神の詩 バガヴァッド・ギーター』  田中嫺玉著 59Pより引用




これ、ほとんど同じ意味じゃん?

「煩悩を離れた聖者、仙人というのは、人間的な感情や葛藤を全て捨て去って、ただ与えられた役割を果たせる存在である」

と言っているのだから。




さらに、似たような表現が50回くらい出てきます。同じことを別の言い方でひたすら繰り返しています。それが宗教的メッセージの核だから。



となると、サイコパスと聖者の区別は紙一重やないか。

「私欲なく仕事を遂行」の部分だけが食い違うけれど、そんなのは外部の人間には判定できない。


何よりも、この『神の詩 バガヴァッド・ギーター』は、戦争で親兄弟が殺しあう寸前にある状況を嘆いている王子様に対して、神が「殺しあうのが正解だ!」と諭し続けるストーリーになっている。



それが現世における義務なのだから、泣き言を言うな。腹をくくれ!さぁ殺しあえ!!

と繰り返し説得している。マジで。



とにかく、サイコパスの殺人鬼と宗教的な聖者は瓜二つなのだろう。




なぜなら、宗教家はこの世を映画だと見なしているから。

俳優の伊藤英明さんがサイコパスを演じたように、この世の人間たちにも「与えられた役」があることを理解しよう。

そこに逆らわずに楽しめるようになれば、全ての苦しみから抜け出せるよ。

というのがヒンドゥー教のキモ。これは仏教でも同じ。




ここだけ見ると、どっちも狂った宗教だと思いますよね?フツーの感覚だと。

でも、じっくりと勉強を進めていけば、その抵抗感は薄れると思いますよ。別に危険なカルト思想ではなく、日本はもちろん世界中の伝統宗教が同じことを言っていることも見えてくるでしょう。



それを知っておくだけでも、いろんな悩みを解決するヒントになると思います。

この世という舞台や映画が、ますます楽しくなりますよ!



また別記事で掘り下げるつもりです。では。


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