選択の自由がもたらす不自由
子どもの頃、わたしははやく大人になりたかった。
大人になったら、自分でいろんなことが選択できると思っていたからだ。
いろんなことが自分の決断で選択できる。
それはわたしにとって、とても自由なことに思えた。
そんなことを思っていた幼少期と、現在年齢を重ねて当時思い描いた『大人』という年齢になった今を比較したくなったnoteに出会ったのでシェアnoteをしていきたい。
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子どもの頃に思っていた自由な環境にいることができているか、まずはわたし自身の答えを挙げていきたい。
一言でいえば「NO」。
そのことについての持論として時代の変化ももちろんあるとは思うから、今幼少期だったらどんな風に思っただろうかという疑問も湧いてくるけれど…
「コーヒーください」というただコーヒーを飲みたいタイミングでお店に行けば銘柄、淹れ方、講釈などの色んな情報を与えられ、しかもこちらで選択しなければいけないという負荷までかけられる。
語弊がなく伝えたいけど、この後に「選ぶ楽しさもある」と述べている。
近年は情報化社会で、グローバル化も進んで、いろんなことへのスペシャリストが増えている印象を受ける。
コーヒー一杯をとっても、以前であれば『どのお店で飲むのか』『ホットかアイスか』、あとはミルクを入れるのかなどもあるけれど、とてもシンプルな選択肢だった。
それが近年では、カフェオレやカフェラテだとしてもそのミルクは豆乳なのか、アーモンドなのか、低脂肪乳なのか選択の幅が広がった。
さらにはコーヒー豆に関しても、デカフェか否かだけではなく、どの地域のどのようなローストした豆をどのように飲むのかと専門的な分野に及ぶほどの選択肢を迫られることがある。
この動画は、まさに『選択の自由』によって生まれる現状や、それによる効果について教えてくれる。
One effect, paradoxically, is that it produces paralysis rather than liberation.
(1つ目の効果は矛盾していることだけど、これは開放感ではなく無力感を生む。)
コーヒー豆を聞かれた時に、選ぶことができないとなんとなく情けなる人もいるはず。
それでもコーヒーのスペシャリストではないから、そんな風に思う必要はないけれど自分が無知であることを突き付けられたような気持ちになってしまう。
The second effect is that, even if we manage to overcome the paralysis and make a choice, we end up less satisfied with the result of the choice than we would be if we had fewer options to choose from.
(2つ目の効果は、この無力感に打ち勝って選択をしたとしても、選択肢が少なかった時に比べて選択の結果へ得られる満足度が少ない。)
選択肢が多く、自分がその中から自ら選んだ時に、その選択に満足できないと後悔が生まれやすい。
選んだコーヒー豆で淹れるコーヒーが、自分の口になんとなく合わなかった場合、もっと美味しいコーヒーが飲めたかもしれない、と思ってしまう。
これはなにも、飲食の分野に限ったことではない。
この動画にもあるけれど、病院に行った時にAという治療とBという治療が受けられるけどどちらにしますか?と選択を迫られる。
医療のスペシャリストである医師が、無知であるからこそ病院に出向いた患者に選択を委ねる。
これはスペシャリストに関することだけではなく、自分の人生においても似たようなことがいえる。
中学、高校、大学と進学をして、就職または結婚をして…という一連の流れを辿る際にも選択したか流れに沿っただけかによって責任の重さは変わってくるように思える。
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子どもの頃、わたしははやく大人になりたかった。
大人になったら、自分でいろんなことが選択できると思っていたからだ。
いろんなことが自分の決断で選択できる。
それはわたしにとって、とても自由なことに思えた。
そんな風に思っていた当時の自分に伝えたい。
自分自身で選択できることは、年齢を重ねるごとに増えていく。
でもそれは、自由になることではなく自ら責任を課すということ。
自由になりたいのであれば、自由になるための選択をしていく必要がある。
選択をしていくことは、いつだって苦しいことではなくて選ぶ楽しさももちろんある。
それでも選択の本質を間違えてしまうと、選択することがとても苦しく思えたり、自分自身の無力さややりきれない思いにぶつかることにもなりうる。
本来、選択するということは『自ら選びたい時』にしていくものである。
どのコーヒー豆で飲むかを選びたい人は選べばいいと思う。
そうではない人にとっては、どのコーヒー豆で飲むのかよりも『どのお店で飲むのか』という選択だけでいいような気さえする。(ホットかアイスかはその時の感覚で決めればいい)
どんな治療を受けるかを選びたい人は選べばいいと思う。
そうではない人にとっては、どんな治療を受けるかよりも『どの病院で、どんな先生になら任せられるか』という選択の方が大切に思える。
人生の選択肢においても、そう。
選択肢が多すぎると目移りをしてしまう時もあって、その結果「こんなはずじゃなかった」という思いが生まれるということもある。
結婚は何歳にするのか、仕事を優先すべきか、子どもをいつ産むのか。そうではなくて、本来の選択は『誰とどんな風に生きていくか』だけでいいのだ。
だれだって大小問わずに選択を繰り返していく。
それが時には責任に問われることもあれば、自身の人生を大きく変化させる出来事になることもある。
望んだとしても、望まないとしても、選択を迫られる時代になってきている。
だからせめて、選択をしないという自由だってあっていい気がする。
極端にいえば、「美味しいコーヒーをください」という注文だけで完結できる空間があってほしい。
そんな注文をしても安心できる環境がある人生であれば、どんな大きな選択を迫られる人生だとしても、きっと開放感や安心感に満ち足りるように思えてならない。
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