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こ と ば あ そ び 。


言葉って、概念。

第二言語で生活したときのこと考えると、言葉って文化であり概念だなぁと思う。

日本でも方言があるように、各々の言葉には生まれた意味や理由があって存在し続けているはず。


英 語 と わ た し 。

オーストラリアへのワーキングホリデーに行くまでは、英語は学校の必修科目であり、勉強はテストのためだけのものだった。
決められた範囲を、血まなこにして暗記して、言葉が持ち合わせている意味なんてなんの意味も持たなかった学生時代。

最初の4ヶ月間(ワーキングホリデーで許可される学業期間の最長期間)は語学学校に通学した。もちろん、先生も英語(担任はイギリス人)を話す。

学生時代、そこそこいい点数を取っていた英語という科目だけれど、初日から、自分がいかに英語を教科としてしか見ていなかったのかを目の当たりにした。
こんなにできないものかと、正直驚くほどにできなかった。アンビリーバブル。

「Aina!」と名前を呼ばれたことだけは認識できるものの、それ以降なにを言っているのかわからない。

「もう一度言ってほしい」
「ゆっくり話してほしい」
「なんて言ったのかわからない」
なんて自分の考えを伝えることさえもできずに、ただ冷や汗をかきながら授業が終わるのを待つ…という時間の過ごし方をしていた。

それが最初の1ヵ月間の語学学校での過ごし方だった。


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言 葉 と は 意 思 表 示 の ツ ー ル 。

オーストラリアの生活はというと、日本食のレストランもあるし、スーパーマーケットもセルフレジ、代行会社を通したため必要な手続きは会社の方がしてくれて、日本人の知り合いはすぐにできた。
生活していこうと思えば、英語がなくても全然できる環境だった。

実際、オーストラリアにて起業している方と知り合った時に話を聞いたら、20年くらい住んでいるけど「英語は全然話せない」と言っていた。


英語がなくてもなんとかなるのかなぁ、なんて思って過ごしていたけれど、過ごしていく中で自分の考え方が変わっていった。ごく自然と。

言葉がわからなくても、生活はできるかもしれない。
だけれど、言葉をわからないことは、自分の意思を伝えられないだけではなく、相手の意見も聞くことができない、ということだと思った。
それってつまり、「あなたやあなたの考えに興味がないです」と言っている気がしてしまう。

これは外国語にだけ言えることではなく、日本語でも同じことだと思っている。

日本に住んでいて、当たり前に日本語を使っているからこそ、言葉がツールだということに気づく機会が少ないような気がする。
わたしも英語に触れて初めて気付いた点だった。


会 話 は キ ャ ッ チ ボ ー ル 。言 葉 は ツ ー ル 。

同じ言語を使って話しているので「伝わって当たり前」という感覚になっていた自分にとって驚きの発見だった。

でもよく考えてみると、『相手が理解できるように伝えること』と『相手の言葉を受け入れる準備をする』という2つが重なって初めてコミュニケーションが成立する。結構ハードなことなんだよね。

「会話はキャッチボール」というのは、本当にうまい例えだと思っている。
相手が受け取れない速度や暴投をしていては、いつまでも受け取ってもらえない。お互いが受け取る準備ができていない状態でのキャッチボールも危険だよね。怪我の元になる。

その会話を成り立たせる言葉は、突き詰めてしまえばただのツール。道具である。

だけれど、その道具の使い方や、持ち合わせた道具のクオリティによってキャッチボールの質は全然変わってくる。

どの言語を使うにしても、コミュニケーションには気を配りたいなぁと日々思う。
自分が発する言葉がきっと、自分自身の思考や概念を築いているからね。


ノルウェーは英語が公用語のため、ほとんどの人が英語を話せるらしい。
それでもノルウェーで出会った人たちとのコミュニケーションや、ノルウェーの文化に触れるためにもノルウェー語の勉強をしていくよ。

英語でもノルウェー語でも結局はツールだから、その根底にある気配りやコミュニケーションへの意識は忘れずにいたいな。


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