言葉に呪われたくない
毎年、たくさんの言葉が生まれている。
新語・流行語大賞に並ぶ言葉が毎年移り変わる中で、言葉が生まれて、そして忘れられていく。
言葉の力って偉大だなぁと、改めて思ってしまう。
少し前まで、名前がなかったものに名前が付くと途端に認知されていくこともある。同時に、そこには偏見や固定概念のようなものも一緒に植え付けられているような気がしてしまう。
新型コロナウイルスの影響によって、本当にたくさんの言葉が生まれた。
カタカナでよく言われている言葉そのものは、英語として存在していたものだったはず。こんな形で、日本人にも認識される言葉になるとはきっと想像していなかったはずだけれど「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」「ソーシャルディスタンス」「ステイホーム」など、聞かない日はないくらい、嬉しくはないけれど身近な言葉になってしまった。
それだけではない。
「コロナ疲れ」「自粛疲れ」「コロナ離婚」「コロナ破局」。そんな言葉も聞くようになった。
普段でこそ、疲れが溜まったり、恋人や伴侶との別れも訪れる。
それが現状と重ねて、名前を付けて言葉にしてしまうことで、もうそれ以外の何者にもなれなくなってしまう。
本当はどんな正体かもわからない「何か」に言葉を付けることは、なんだか呪いみたいだ。
言葉にした方が、表現はしやすくなる。
だけれどそうなった結果、知らないうちに考えが固まってしまうことだってある。
本当のところは誰にも分からない不確実なことにまで、名前をつける必要なんてきっとないはずなんだよね。
コロナ離婚やコロナ破局も、今回のことがなくても訪れていたかもしれない。
それにお別れすることは、ネガティブなことではないはずだと信じたい。お互いの未来を明るくするために、最善の選択をしている人たちだってたくさんいる。
今回のことに限らずに、わたしは女性特有の現象である「生理前の不安定さ」に、わたし自身の感情を当てはめられるのがすごく嫌いだ。
その期間じゃなくても、許しがたいこともあるし、イライラすることもある。
ちゃんと物申したいこともあるのに、その期間に伝えることで「あーこのタイミングだから過剰にイライラしちゃってるんでしょ」みたいな対応をされることが余計に怒りの熱量を上げていく。
気持ちや何かを伝えるために、言葉ってすごく便利。
だけど使い方を間違えてしまったり、名付けなくていいものにまで言葉で表せるようにしてしまうことで余計な感情まで生み出してしまうことだってある。
この現状に当てはめられる言葉なんてわからない。
だけど、わからないままでいい気がする。
この現実に生きた人にしかわからない思いがあって、それを後世に伝えることだってできやしない。だから無理に、言葉に当てはめたくないと思ってしまっている。
渦中にいる時ではなくて、せめて振り返った時に「あの時って今思えば…」なんて、ひとつの記憶として取り出すための名前だけでいい。
気持ちに余裕がない中で、その感情や体調や身の回りのできごとまでも言葉に縛られて呪われる必要なんてないはずだよねって思っている。