私とK
高校二年生のとき、夏目漱石の『こころ』の授業があった。現代文の先生が好きで、私はその先生の授業ではよく挙手をしていた。
『こころ』の導入の授業のときのことだ。
「主要登場人物は誰か、わかる人?」
誰も手を挙げない。私は挙手をして当てられたので、自信満々に答えた。
「『私』とKです」
すると、なぜか教室中がざわついた。私は急に不安になって縮こまり、上目遣いで先生を見上げる。
「そうだな。他に誰がいるかな? じゃあ……」
授業が終わり、クラスメートに「私何か変なこと言ったかな?」と尋ねる。「そんなことないと思うけど」と返ってきてほっとした。では、あのざわめきは何だったのだろう。もやもやした思いのまま、次の授業を受けた。
放課後、それほど親しくないクラスメートたちに呼び止められる。その日は試験期間中で部活が休みだった。
「どうしたの?」
「Kのこと、どう思う?」
よく意図がわからないままに答える。
「まだ授業始まったばかりだし、よくわかんないかな」
「ん? どういうこと?」
「え? 『こころ』のKのことでしょ?」
「あはは。違うよ。うちのクラスのK。どう思う?」
「……あっ、Kくんのことか。えっと……優しいし、かっこいいし、頭もいいし、バスケも上手いし、すごいなぁと思う……かな」
「そっか。実はさ、Kがすーこさん好きらしいんだけどさ、告白とか興味ない?」
「え?」
とても驚いた。冗談を言っている感じではなかった。真剣なまなざしで彼らに見つめられ、私は戸惑った。
考えたこともなかった。Kくんは、明るい、日向にいる人だなぁと思っていた。みんなに優しいし、みんなが集まるクラスの人気者。彼の周りはにぎやかで、笑いが絶えない。傍目から素敵だなぁと思いながら、別世界がそこにあるように思っていた。つながりは生物の授業くらいで、そのとき気さくに話しかけてくれて、いい人だなぁと思っていた。
特に彼が眩しく見えたのは、クラスマッチのときだった。バスケットボールを自由自在に操る彼の姿に釘付けになり、夢中で応援した。紛れもなくヒーローだった。
たまたま最近席が隣になって、少し仲良くなれたかなくらいの気持ちでいた。お互いクラスメート止まりの印象だろうと思っていた。一方的に、私だけが憧れる対象、そんな存在。
ちょうど修学旅行を控えていた。カップルが増えているのは恋愛事情に疎い私にもわかっていた。それを見据えて恋バナがそこかしこで持ち上がり、盛り上がりを見せていることも。
それを他人事のように思っていた私は、まさか自分がその対象になっているとは思ってもみなかった。そして、現代文の授業のざわめきに合点がいった。でも、外堀を埋めるみたいなのは嫌だったし、うまくいかなかったときのリスクが大きすぎる。
「そんな、私なんか恐れ多いよ。釣り合わない。それに本当にKくんが好きかわかんないし」
そう言って、せっかくのチャンスを棒に振った。
それからも、Kくんは適度にそのまま接してくれた。あの噂はやっぱりただの噂だったんだ。恥かかなくてよかった。そう思って、席も離れ、次第にすれ違ったり生物の授業で席が隣になったりしたときだけ話す関係に戻った。そして、私には別に好きな人ができた。
三年生になり、Kくんはまた同じクラスになった。そして、また席が隣になった。
「久しぶり」
どちらからともなくそう言って、また話すようになった。
あるとき、彼の机上の赤本が目に留まる。
「Kくん、●●大学めざしてるの?」
「うん。すーこさんは?」
「私、●●大学」
「そうなんだ! 関西圏めざしてる人少ないから驚いた。お互いがんばろうな」
「うん」
秋になり、最後の九州大会を終え、最後の文化祭の合唱の練習に励む日々。これで部活も引退。同期のみな、感傷に浸りながら、最後までいい歌声を届けようと一生懸命練習していた。
そんな中、クラスの女子たちの間では専らこんな話題で持ちきりだった。
「Kくんバンド組むんだってー!」
私も密かに楽しみにしていた。
当日、Kくんのバンドをこっそり見に行った。そして、息を呑んだ。そこには、ステージ上で一際輝く彼の姿があった。あのクラスマッチを思い出す。いつもの柔和な雰囲気とはまったく違う、熱く、仲間と一瞬一瞬を全力で駆け抜ける彼。あっという間に終わり、黄色い声が上がる。そっと人波を抜け、私も自分の現役最後の舞台を終え、文化祭は幕を閉じた。
翌月のKくんの誕生日に、バンド演奏の感想をそっとメールで伝えた。
翌朝、久しぶりにKくんに話しかけられた。
「ありがとう! メール、うれしかった」
ファンみたいな気持ちだったから、推しにお礼言われちゃった! と内心で小躍りしていた。
それから受験一色となり、卒業。
それ以来、Kくんとは連絡をとっていない。志望大学に行けたことは人伝に聞いた。でも、関西で会うことはなかった。きっと今、素敵な彼女か奥さんがいるんだろうな。
冒頭に延べた現代文の先生のおかげで、『こころ』は忘れられない作品になった。衝撃的な展開に、高校二年生の私の胸が疼いた。人の心がありありと描かれたこの作品。「私」(先生)の心もKの心も胸に迫ってくる。授業を重ねるごとに、どんどん『こころ』の虜になっていった。国語便覧に書かれた『こころ』の説明もじっくり読んだ。
授業が終わる頃に同じ部の人を好きになり、恋ってこんなにも一喜一憂して、つらいんだなぁと思うたび、『こころ』を思い出した。あのとき降って湧いたチャンスを掴んでいれば、私は幸せな恋愛をできたのだろうか、とさえおこがましくも思った。
『こころ』に触れるたび、私はあの導入の授業を思い出し、Kくんに思いを馳せる。