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剣の神と鹿と正道古流の復興【3】正義、大義とは何か


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武士が示した慎ましさと、国を守るための勇気


日本の庶民は頭が良くて勤勉。中には、豊臣秀吉のような天才、傑物もいた。そんな侮れない民を統治する武士は、厳しい法を守り、油断なく知恵を深め、己を磨かねばならなかった。
多くの武士が、高い意識と能力で公に尽くし、平和の維持に貢献した。

日本の武士は、愚かで非力な民から一方的に搾取していたのではない。
武士の中には貧しい者も多く、彼らは私利私欲を捨てて国に奉仕していたのである。
武士は身分が高く、特権を得ていた一方で、不正を働けば、即、切腹。戦さがあれば、一番に命を投げ出すのが当然、といった厳しい立場にもいた。
厳格な武士がにらみを利かせていたおかげで、日本には悪がはびこらず、治安がとても良かった。

江戸時代には、刀を差した武士がうろうろしていて、民は法や秩序を守らざるを得なかった。と、同時に、日本では道徳教育に力を入れたため、盗みを働いたり、弱い者いじめをしたりする人が減る一方であった。
これが200年も続くと、上も下もモラルを守るのが当たり前。武士が威圧しなくても、悪事を働く人はほとんどいなくなり、世は本当に、根っこから平和になった。

江戸の町民は、あまり武士を恐れなくなり、相当、自由な状態となった。
強い男同士であれば、喧嘩などもして、自分の力や才覚を誇る庶民が多かった。
女性もかなり自由で、「かかあ天下」が、日本では昔も今もお馴染みだ。

むしろ、武士は喧嘩が禁止であり、みだりに刀を抜くことは許されなかった。
お上の権力を畏れ、お硬く、慎み深く暮らしていたのは、逆に武士のほうともいえる。

平和で、基本的な道徳教育が浸透し、皆が善悪をわきまえながら共存し、大きな悪事や争乱など誰も企まない。そんな空気に包まれた、本物の泰平の世。
この素晴らしい社会をリードし、維持したのが武士なのだ。

日本の武士の多くは、立派な生き方をしていた。
だが、彼らの努力や功績は忘れ去られる危機に瀕した。
明治維新と昭和の敗戦、これが二大危機であったことはすでに述べた通りだ。

戦後の思想統制やイメージ操作により、印象を変えられたのは、江戸時代の武士だけではない。
戦国時代の侍たちも同様である。彼らは命がけで戦い、乱れ切った世を武の力で何とか治めた。国の秩序と、人の道を取り戻すために奮闘した。そんな武士たちの勇姿や真値も、忘れられたり、歪んだ伝えられ方をしたりした。

戦国武将たちは、単に天下取りの野心に燃えた戦士とされたのだ。
まるでゲームのように、ただ争い、国の盗り合いをし、勝つための戦略を考えているだけ。そんな利己的な武士像が作られた。

利欲主義の野心家たちが争う中、たまたま徳川家康が、最も賢く、ずるく、天下をこの手に握りたいという執着心が強かったため、最後に勝った。
そんな印象を、多くの日本人がもってしまった。

家康は、最もずる賢い人間であるから、家康の謀略の前に敗れ去った敵方の武将たちは、むしろ讃えられるべき、良き人物だ。戦国時代に思い切り世を荒らし、無法を働き、国を乱し、華々しく散った武将たちこそが立派である。反徳川の将にこそ注目すべきであり、徳川方の武士などは勇気も知恵も華もない、つまらない人間だ。
そして、結局、どちら側につこうとも、武士は戦さをしたり、権力闘争をするしか能のない人々だった。
このイメージは、実にひどい。

江戸時代の武士は庶民から搾取する、特権階級の悪者。
戦国時代の武士は、国盗りゲームに明け暮れるだけの野心家や乱暴者。
いずれの時代の武士も、違った意味で、欲深い不道徳な人間という印象になり、これが常識と化した。

しかし、実際の武士は、厳しい規律を守り、正義のために戦い、無法な賊や悪徳武士たちと戦った。そして勝利し、見事に平和を実現したのである。

無法が横行した戦国時代に、誰が正しく立派な武将で、誰がひどい人物であったか。これを見分けることは、かなり難しい。
例えば、歴史上、長い間、悪将といわれてきたような人物が、新発見や地道な研究などにより、正しい面があったとか、まともな人物だった、と判明するケースもある。

しかし、伝統的な解釈は、ある程度、尊重すべきだろう。ずっと悪人という定説があり、史料的にもそれを覆すほどの材料がない中、その将を無理矢理、良い人物とするのはおかしい。
逆も同じだ。徳川家康のように、戦国時代を終わらせ、長い平和をもたらした将軍を、悪人扱いするのも無理があり、不自然だ。

悪将の例などは挙げたくないが、明智光秀のようなひどい人物を、善人のようなイメージにするのは良くないと思う。
織田信長が、何の罪もない善人だったとはいわない。しかし、光秀はその信長の手先として多大な利を得ていたのだ。もし、主君の信長が悪人だと思えて、どうしても日本の国のために討つ、と決意したのなら、別の最期があったはずである。

光秀がまことの武士ならば、本能寺で信長を自害させた後、自らも切腹すべきだった。
信長は、大恩ある主だが、生かしておくと世のためにならないと判断した。だから、本能寺で討った。自分は、その大罪を認めて責めを負う。
信長をあの世へ送ったのは、決して、己が天下を奪いたいからではなく、国のため、民のためなのである。
これならば、理解できなくもない。

しかし、実際には信長の天下を奪おうとし、世を大きな混乱に陥れた。
光秀を支持する者などは少なく、すぐに秀吉に敗れた。

そもそも、もし光秀がまことの善人であったなら、突然、主君を襲うようなことはせず、信長に、悪い点を改めるよう諫言したはずだ。
そのような勇気はなく、信長には媚びて出世した。その後、隙を見て、主君の天下を奪うなどひど過ぎる。

光秀が善人であった、という人は、彼が良い事をしたという。
しかし、人の一生は長い。悪人でも、時には良い事もするだろう。その良い事だけをピンポイントで取り上げ、他の大きな悪事を無視して、善良な将であったといっても説得力はない。

光秀の場合、本能寺の変までは信長の命令で動いていたのだ。良い政は、信長の命令で行なった可能性もある。
なぜ、比叡山の焼き討ちなど、残虐なことは信長の命令であり、良い政策は光秀独自の考えだ、といわれるのか。

これはイメージ操作としか考えられない。
光秀は、本能寺へ向かう途中、秘密裡に大軍を移動させるため、目撃者などがいれば切り捨てろと命じた。庶民でも誰でも、斬殺させたのである。

現代において、日本の武士はしばしば、悪将が善人のようにいわれ、大義正道の将が悪人のようにいわれてきた。
あるいは、すべての武士が私利私欲で動く人間とされた。
そのため、本当に正しい武士の勇姿が見えなくなっている。

戦後、日本人は、昔の武士に対して確固としたイメージや人物像が描けなくなった。
深い心のつながりを感じたり、大きく共感することができなくなったのである。

これは、歴史から何を学べばよいのか分からなくなった、ということだ。

個々の史実や、小さな知恵、利を得るための戦略などは、いくらでも学べる。現代人は、江戸時代の庶民などに比べれば、何倍も知識をもっているだろう。
しかし、肝心なことが学べない。
だから、武士のように腹をすえることも、勇気を出して、迷わず進むこともできないのだ。

日本人の軍事アレルギー

戦後の思想統制は、日本人の心に、実に大きな影響を与えた。
日本人は、本当に日本人が嫌いになり、日の丸や国歌にも悪いイメージをもち、自国否定という長いトンネルの中をさまよい続けることとなった。
生きる目的を見失い、ただただ経済的な競争のみに人生を捧げる人が増え、金持ちだけが偉いかのような世の中ができてしまった。

メディアなどでは、日本人の良さや、日本の素晴らしい文化などを伝えようとする取り組みも見られた。ここ10年、20年はそれが増えたようにも感じる。しかし、それらも非常に限られた形や内容だ。

例えば、日本のアニメのキャラクターが世界的に人気だとか、日本の伝統工芸が繊細で美しい、など……とても限られた分野、領域の話ばかりをする。
日本人の道徳心を褒める場合も、サッカーのスタジアムで日本のサポーターがゴミ拾いをして帰った、というようなピンポイントの話を取り上げる。
もちろん、これらは日本が誇るべきことであり、立派な文化や習慣だ。しかし、このような部分を褒めるのが精一杯ということである。

とにかく、日本の国を良くいうことに関しては、制約が多い。
中でも特に制限を受けてきたのは、軍事的なテーマだろう。
日本以外の外国では、自国の軍隊の様子がよく伝えられ、皆が国軍に誇りをもつことが多い。
ところが、日本の国民は軍を嫌いになったり、軍に不信感をもつよう統制された。

軍に国の実権を渡せば、戦争をする。軍は国民に全体主義を強制し、ひどい目に遭わせる。
軍人は、武器をもって国民を威嚇し、国中を地獄のようにする悪の元凶だ。
昭和の戦争で、国民が悲惨な状況を味わったのが、その証拠である。

軍に対する悪いイメージ作りは、戦後、80年近く経っても終わらない。
例えば、世界のどこかの国で、軍がクーデターを起こしたとしよう。すると、日本のニュースでは、軍が悪者のように伝えられる。たとえ、その国の政府が長年、悪政を行なっており、軍が国民の支持を得て立ち上がったのだとしても、軍は悪いもの、恐ろしいもの、という風に印象づけられる。軍は、何の罪もない一般市民を弾圧しているとされ、軍の動きに反対する人々は、皆、善人のように伝えられるのだ。

軍によるクーデターというのは、国が乱れるきっかけにもなるため、もちろん、望ましいものではない。
しかし、軍に倒された政権が、どのような政権であったのかも確かめず、ただただ、軍は恐ろしく、不当で、一般市民の敵だ、というニュースを流し続けるのはおかしい。
これを70年も80年も観続けた日本人は、国軍アレルギーを起こしているだろう。

世界の軍人たちは、本当に戦争を好んでいるのだろうか。
軍は戦争をしたがる──このイメージは、本当に正しいのだろうか。
よくよく考えると、この固定観念はかなり疑わしい。

戦争が起きると、戦地へ赴き、傷ついたり、命を落としたりするのは軍人である。
自分の人生が終わったり、ひどい大怪我をするようなことを、人が本気で望むだろうか。
もちろん、日頃から厳しい訓練を受けたり、立派な兵器を持ったりしていれば、何か実際に手柄を立てたい、と思う人もいるだろう。
しかし、それは小さな欲や出来心であって、本当の、大きな望みではない。

まともな軍人であれば、他の国の軍人も、同じように厳しい訓練に耐え、規律を守り、日々、任務に励んでいることが想像できる。
そんな軍人同士で、命の奪い合いをしたいとは、なかなか考えないはずだ。

軍の上層部は、自分が前線に立たず、傷つかないから平気だ。そんな風に思う人もいるかもしれない。しかし、これもまともに考えれば、有り得ない話だ。
自分の部下がひどい目に遭うことを望む軍人など、めったにいないだろう。

このように考えると、安易に、深い意味も大義もなく戦争を始めるのは、軍人ではない可能性が高い。
もちろん、常に国境で紛争を抱えていたり、何らかの事情で、互いに敵意や憎しみが募っている場合、現場の軍人同士が武力衝突を起こすこともあるだろう。
しかし、彼らも好きで戦っているわけではない。

むしろ、安易に戦争を始めるのは、現場を知らない人々である、という見方が必要だ。
ただ世界地図を見て、ここで紛争や戦争を起こせば、いくら儲かるか、と、計算しているだけの人がいる。実際に、戦争で死者が出ても、何千人、何万人という数だけをカウントし、ほとんど何も感じないような人がいる。
どこかの町が焼け野原になっても、その復興でどれだけの経済効果があるか、ということに、まず関心を寄せる商売人などもいる。

軍人が悪いというのは戦後の印象操作だ。
無論、中には悪の手先のような軍人もいるが、国軍の本来の目的は、悪意のある敵国から自国民を守ることであり、そのような非常事態が起きないよう願っていることだろう。

深い洞察とシンプルな感覚で正義を知る

日本人は「順」と「逆」でいえば、「順」の精神や忠義心が強い、ということは、すでに述べた。
徳川家康はこの代表といえるだろう。
家康の「順」の性質については、過去のコンテンツ「『英雄たちの選択』家康 絶体絶命! 金ヶ崎の退き口の真実──カット部分&言い残し」でも書いた。

ただ、家康も下克上の戦国時代を生きた武将であり、上の者を押しのけて天下を取った人物ではある。
そんな将を、なぜ義に厚い「順」の武士と見るのか。
疑問をもつ人もいるだろう。

これは実のところ、正しい道とは何か、という根本にかかわることだ。

家康が、下克上と見える動きを起こしたのは、大きくいって二度である。
最初は今川義元の死後、今川家から独立し、旧主家に反したとき。
もう一つは、豊臣秀吉の死後、主家の豊臣家を差し置いて征夷大将軍になったとき。

当時は極めて複雑で不安定な時代であったものの、シンプルに世を洞察すれば、家康は二度とも、ただ「正しい選択をしただけ」だった。
言い換えれば、今川義元と豊臣秀吉は、良い政をしていなかったということである。
家康はそれを改革、改善するために実権を握った。

悪政を行なう主君に尽くすことは、むしろ悪事に加担することである。そのため、勇気ある武士は、たとえ相手が強くても、民を苦しめる為政者にはもの申したり、逆らったりする必要があった。

戦国武将が、正しい道を歩むために上の者を押しのけたのか、私利私欲のために主君を裏切ったのか。これを見分ける方法がある。
それは、下克上の前後で世の中がどう変わったか、を観ることだ。

一つの例として、「重税」という悪政をテーマにみていこう。
今川義元と豊臣秀吉の大きな共通点は、民に重税を課して、自分たちだけが贅沢をした、ということである。
これはシンプルに悪政といえるだろう。

秀吉は、室町時代、畿内の民が重税に苦しんでいたことを知っている。足利幕府はこれを改善することなく、民を放置したり、見下したりしていた。
そんな悪政を打破すべく、織田信長が上方へ進出し、秀吉はその家臣として奮闘した。秀吉は、それまでの社会に不満をもっていた人々を味方につけて、勢いよく出世した。

ところが、信長の死後、秀吉は「義」を失ってしまう。
大恩ある織田家で内紛を起こし、信長の子を死なせ、自らが天下を取ってしまったのである。

そして、太閤検地が始まる。太閤検地は全国一律に重税を課すという悪政であった。
つまり、秀吉は、室町幕府に不満をもつ人々の力を利用して伸し上がったにもかかわらず、民を裏切り、再び重税を課したのだ。

秀吉は、室町幕府や古い武家の勢力を滅ぼし、一見、世の中を大きく変えたかのように見える。悪質な寺社の権益なども剥奪し、上方の様子を一変させた。
しかし、よくよく本質を観ると、古い勢力の身分や権益を、我がものにしただけである。

喜んだのは、秀吉に近い人物や一部の商人などに限られ、農民など、多くの民が苦しんでいることに変わりはない。
これを「取って代わり型」の下克上と呼びたい。

一方、家康が行なったのは「改革型」の下克上だった。
家康は、天下を取っても、さほど贅沢な暮らしなどはしていない。ただ、世の中を良い方向へ変えるために戦ったといえる。

家康は、太閤検地が広がる時代においても、自国内では税を軽減していた。秀吉にただ従うのではなく、独自の政を行なっていたのだ。
家康は、太閤検地が断行された地域より、自国の民のほうが満足していることを知っていた。だから、この政を全国に広めるため、征夷大将軍となった。
極めてシンプルな道である。

では、今川家の場合はどうであったか。
今川家は源氏の名門である。様々な面で、秀吉とは異なっていた。
しかし、重税を課し、多くの民が苦しい生活を強いられた、という点では同じである。

そんな今川義元は尾張国へ侵攻し、桶狭間で、織田信長の奇襲によって討たれた。
今川軍のこの戦いに、大義があったとは考えにくい。
義元は、ただ尾張という豊かな国を盗り、信長に「取って代わりたかった」だけではないのか。

信長が尾張国で、何か特別、悪政を行なったとはいわれていない。
三河や遠江などの今川領より、民はむしろ良い暮らしをしていただろう。
信長が、京の都の天皇や室町幕府に対して、反逆を企てたわけでもない。
そのような中、尾張国を盗りにいった義元は、何を考えていたのか。

そもそも、今川義元は二重基準、いわゆるダブル・スタンダードの人物だった。
源氏の名門として、室町幕府の権威を利用しながら、その足利幕府に忠義を尽くすことはなかった。
今川義元の「義」の字は、室町の足利将軍から賜ったものである。その名を頂きながら、幕府が困った時も、命がけで奉公しようとはしない。

室町時代の大名は、こういう将が多く、それが幕府の弱体化につながったといえる。
無論、幕府の側にも問題は多かった。
どちらが正義かも見えづらい、内輪もめのような内紛を繰り返していた。その度に、地方の大名が都にかり出され、血を流すのではたまらない。

しかし、ならば、足利幕府を見限ればよかったのである。
幕府とは距離を置き、とりあえず自国の安定や民の暮らしを優先する。そういう道もあったはずだ。
ところが、義元は民の側には立たなかった。足利将軍の権威を利用し、自らが都帰りであるというブランド力を活かしながら、駿府という地方で圧倒的な権力を誇る。三河や遠江を属国のようにして重税を課し、自分たちだけは優雅な大名暮らしをしたのである。

義元は頭が良かった。
だから、都の混乱によって、京都から公家などの文化人が逃げてくると、これを匿って保護する。その結果、駿府は文化的な町、というブランド力が強化されていった。
義元は、室町幕府を強化し、京の都を平穏にする、ということには尽力せず、自分だけが安全で文化的な町に住み、楽しんでいた。

民に重税を課し、幕府にも忠義を尽くさない。上にも下にも奉仕しない。
これが、武士の生き様といえるだろうか。

家康の母国、三河では、武士も民も貧しい生活を強いられ、徳川(松平)の家臣は戦さで命を落とすことも多かった。
こうした、大きな犠牲の上で成り立つ今川家の繁栄を、家康はどう観ただろうか。

今川義元は、駿河、遠江、三河の三国を実質的に支配する海道の雄であった。彼がその気になれば、良い事はいくらでもできたはずである。
尾張国に攻め入らず、自制し、信長と和睦すればよかったのだ。そのために、足利将軍の名や源氏の血筋という権威を使えばよかった。

信長の父、織田信秀は無法な将であったが、信長も同様とは限らない。もし、信長が悪人であっても、当時の力関係では今川家のほうが強く格上であった。義元が和議を唱え、尾張と三河の国境線を丁寧に決めれば、戦さは終わったのではないか。

そうなれば、三河の徳川家(松平家)も、長年の苦しみから解放され、民も安心したことだろう。
尾張と三河が平和的につながれば、間違いなく両国は豊かになる。これが正しい政道というものではないのか。

しかし、実際に義元が行なったことは、その真逆である。若い信長が、何とか一つにまとめようとしていた尾張国に大軍で攻め入り、戦さを始めたのだ。日本という国にとっては、これは内乱の始まりである。

家康は、今川家から独立した後、悩みに悩んだ末、信長と同盟を結ぶことを決めた。
信長はやがて上洛し、足利将軍に頼られる存在となる。すると、家康も室町幕府のため、また、都の安寧のために命がけで戦った。
徳川は、今川家のような二重基準から脱し、武士として筋を通す道を選んだのである。

今川義元の時代の東海道と、家康が天下を取ってからの海道諸国は全く違う。戦さがなくなり、都から関東までが安全につながったのである。
駿府はもちろん繁栄したが、三河などがその属国のように虐げられることはなくなった。尾張も、名古屋を中心とした徳川の大拠点となって栄えた。
東海道はよく整備され、大名や商人など多くの旅人が西へ東へ行き来し、豊かな未来が幕を開けた。

これは、私利私欲による「取って代わり型」の下克上ではない。
都の貴人と全国の民、双方のためになる「改革」であった。
まさに、武士としての正しい道、生き様だったといってよいだろう。

歪められた道を正すとき

家康は、大義や人の道を重んじる。そのため、やむを得ず下克上を断行する際も、主君その人に、直接、弓は引かなかった。
明智光秀のような、血も涙もない悪将とは違うのだ。
今川義元は、自ら敵国の尾張に攻め出し、織田信長に討たれた。秀吉は老いて病死している。どちらの場合も、まずは主君の死があり、その後、世が混乱、動揺することが予想された。そこで、家康が強いリーダーシップを発揮したに過ぎない。

家康は、自然の流れや時代の流れに乗ることが多かった。
義元を失った今川家は、海道の広い地域を治め続けることは困難であった。
秀吉を失った豊臣家も、幼君、豊臣秀頼の下、うまく全国を治め切ることは難しいと見られた。豊臣家は、内紛の火種を抱えており、政に関しても不満をもつ者が多かったからである。
家康は、傾いた政権を改革したのであり、うまくいっている政権を、無理に倒したわけではない。その点はとても重要だ。

豊臣政権は、もともと不安定さを抱えていた。
まず、古い武家勢力を敵に回し過ぎたという問題がある。秀吉の戦い方は武家の作法を無視したものが多く、なかなか侍たちの心をつかめなかった。

実のところ、秀吉は、家康の人望と徳川の武力がなければ、とても天下統一など成し遂げられなかった。特に東国の制圧は不可能であったと考えられる。
武辺を誇る大大名の家康が、豊臣に臣従したおかげで、多くの武士たちが秀吉に従う流れになったのだ。

家康と秀吉が激突した小牧・長久手の戦い。これは、軍事的には徳川の優勢で終わった。その後、もし、徳川が頑なに抵抗していれば、日本は真っ二つに割れ、泥沼の内戦が続いた可能性が高い。
秀吉は、武辺で勝る家康に、頼み込んで家臣になってもらったのであり、むしろ徳川に恩義があるくらいなのだ。

秀吉は、「人たらし」といわれ、人の心をつかむのがうまかったとされる。しかし、それは、相手の欲につけ込み、うまく駆け引きをした、というだけのことだ。
何の利益にもならない戦いに命をかけさせるほど、皆の心をつかんだ将ではない。
秀吉は、臣下の大名に出兵を命じておいて、留守中、その大名の妻に手を出そうとするような人間である。
そのような主を誰が心から信じ、尊敬するだろうか。

「たらし込む」というのは、人をだまして自分の思うようにする、という意味だ。つまり、「人たらし」は、武士に対する褒め言葉ではない。
武士として、秀吉が畏怖されず、信用もされていなかったことが、この言葉に表れている。

そのようなわけで、家康は豊臣政権の悪徳や不安定さを正すために、天下を取ったのである。
結果、豊臣家が思いつきもしなかった「長い平和」を実現した。

家康は、他者から権力を奪った場合、その後、必ず責任をもって国を治めている。
自分が勝ったから、自分の天下だ。この国は自分のものだ。そのような安直な考えで、国を私物化することはなかった。国を預かるというのは重大な役目だと理解し、常に民のことを思って政に励んだ。

何が正しい道か、どこに大義があるのか。これは、表面的な歴史年表を見ていても分からない。
否……分からないように、我々は歪んだ歴史を教えられてきた、ともいえる。
素直に、シンプルに年表を見れば、徳川幕府は非常に長く平和を保った安定政権だった。様々な産業や文化も発達したのが江戸時代である。
そんな平和な国が乱れたのは、外国からの圧力や介入を受けてからだ。

ところが、我々は、近代的な兵器をそなえた黒船で日本近海に現れ、勝手な要求をしてきた外国勢力を、「有難い存在」だと言ってきた。
高い道徳感をもち、平和な社会を保ちながら生きていた日本人を、愚かで「遅れた人々」であったと言ってきた。
武器を持った外国人が、江戸時代のひどい暮らしから日本人を解放してくれた救世主であるかのように、言い続けてきた。
このおかしさ、奇妙さを、よく理解しなければならない。

現代人がはまりやすい罠は、「頭の良さと正しさの混同」である。
頭の良い人が、正しい道にかなった善人とは限らない。
泥棒は皆、だいたい頭が良いし、知能犯という言葉もあるくらいだ。

もし、頭の良い人に騙され、ひどい敗北を喫し、自分がバカのように思えても、彼らを偉い人間だと尊敬してはならない。
頭脳や戦略では劣っても、自分は正しい道を歩んでいるという誇りを持ち続けるべきだ。
そういう気持ちをもっていれば、大事なときに大きなパワーが湧く。何度、挫折しても立ち上がることができる。そして、必ず仲間が増えてくる。
正しい道を歩もうとする人が多い国は、何があっても決して滅びない。

戦国武将でいえば、豊臣秀吉は恐ろしいほど頭が冴えていたし、今川義元も頭が良かった。
だから、彼らを評価すべきであり、見習うべきだという話がある。
しかし、これは正しい道とは異なる。

彼らは、頭が良いが、どこか「愚かしい」。
これが、日本人の伝統的な感覚である。
彼らは賢い戦略で世渡りをし、豊かで、一定期間、大きな権力も有していた。羨ましいようにも思える。しかし、どこか深みに欠け、人としての徳が感じられない。
滅び去ったのが、必然という感じがする。

日本人は、単に利口で頭の良い人と、真の賢者とを区別してきた。
その感覚を失うべきではない。

頭の良い悪人は、小悪党とは違って多くの人を苦しめる。時には大惨事をひき起こし、国が傾く恐れさえある。
これを知り、注意しなければならない。

幸い、日本の一般国民は道徳観がしっかりしていた。昭和のひどい敗戦と、その後の歪んだ教育、思想統制などがあったにもかかわらず、伝統的な「道」や「徳」といった感覚が、完全に破壊されることはなかった。
正しい道を忘れさせ、日本人の力を封じ込めようとした作戦は、狙い通りには達成されていない。
そして、間もなく失敗に終わるだろう。

世界は新しく、大きな流れの中にあり、もはや少数の先進国や富裕層などが、他国や多くの人々を封じ込め、統制するという時代は去った。
日本は先進国である。が、先の大戦の敗戦国ということで、いろいろと目に見えにくい形で、封じ込め作戦の対象となってきた。
だから、今の変化を良い変化ととらえることができるのだ。

ただ、戦後80年近く植え付けられてきたイメージは、かなり強く我々の頭や心を支配している。
そうした誤ったイメージや固定観念を、まず認識することが重要だ。
気づけば、それを一つ一つ捨てていき、自由な心を得ることができる。
その先には「正しい道を迷わず進む」という、夢のような人生が開けてくるのだ。

                                                                                          以下の【4】へ、つづく


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多田容子
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